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松井沙都子:a ghost
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 5月 26日

Copyright © Satoko MATSUI / Courtesy of gallery neutron

私は男女の性差によるものづくりの違いを殊更に強調するのは好まないが、どうしてもそれを経由しないと言葉にできないものがあるのも、また事実である。およそ現代の美術において生理現象や精神的苦痛(またはその背中合わせの快楽)、血、「器」としての肉体をテーマに扱う作家のほとんどは、女性である。それらのテーマはまた、現代に生きる多くの女性が実は、日頃の実感として多かれ少なかれ問題意識を共有するため、感覚的に鋭く訴えかけ、場合によってはその力が強すぎるために拒否反応を示される例も少なく無い。具体名は挙げないが、ある女性有力作家のビデオインスタレーションを初めて見たとき、思わず目を背けたくなると私(男性)が感じた経験があるし、およそその作品を目の当たりにした女性の多くは、見るに耐えないという反応だったのではないか。しかし、おそらくはその作品で真に訴えかけようとする切実な思いに共感できたのもまた、女性である。言わずとも知れたことだが、女性は周期的な生理によって子供の頃から自分の肉体に流れる血液を意識し、子供を腹の中に宿すことによって器としての身体を実感し、さらに産み落とすことによって多量の血液を失いつつ、新たな生命を実現することに歓喜する。そのうち妊娠と出産の経験がなくとも、女性は男性より遥かに血液というものに親しみ、自分の身体に流れるものを実感し、時にはそれを確かめようとする行為にまで及ぶ。それがいわゆる「リストカット」などの自傷行為であり、ほとんどの常習者は女性である。まさか男性は、好き好んで血を流そうとは思わない。まさにそこに、男女の性差をいうものが存在することだけは、私はここで言っておかないといけないと思うのだ。

松井沙都子の制作には、血液の気配はまるで無い。血液どころか、汁気と呼べるものがまるで感じられない。立体であれ平面であれ、彼女の作品はカラッと乾いており、ドロドロ感もベタベタ感も無し。最近の平面(ドローイング)などはあまりにも洗練されて見え、無味無臭、お洒落と呼べるくらいの質感であるのだが、実はその裏にはまさに、血肉の存在が・・・いや、無い。裏にも血肉は無いのである。もぬけの殻。ひらひらと布生地が風に揺れるように、人間の表面たる皮膚(あるいはそれに付随する衣服)は表も裏も見せながら、舞っている。あまりにものっぺりした、薄っぺらな表層だけを見せられていると感じたとき、ふいに背中を戦慄が駆け抜ける。チリリとした、ひんやりとした微かな痛み。それは今までに「女性作家」的なものから感じたものとは違う、安穏で清潔なシーツの上に、ふいに目に留まった血痕のようなもの。何気なく過ぎ去ろうとしていたはずの幸福な時間に、遠くの方から微かなノイズが聞こえてきたかのような、違和感。そして心の中に芽生える、急な不安感と焦燥・・・。

これらを言葉にすることは難しくとも、性差を超えて感じることは出来るであろう、緊迫感。そう、よく見れば松井沙都子の作品には常に穏やかな空気と裏腹な切迫感が潜んでいる。血液だけでなく、筋肉も脂肪も、臓器も取り払われた「人間」はすなわち「人間」と呼べるのかは疑問だが、確実に絵の中には何者かが存在している。それこそが、「ghost」(おばけ)なのだろうか。少なくとも作家は実体の無い存在を「おばけ」と呼び、提示しようとしていることは間違い無さそうだ。

しかし、「おばけ」とは本来、人間の化けたものである。この世に肉体として存在し得ない「存在」。
なぜ松井沙都子が描こうとするものを「おばけ」と定義しようとしたのか、考えれば考えるほど、また冷たい感覚が背中を通り過ぎる。身体を持たない身体は、すなわち器あるいは包装箱のような容れ物。「私」という実体よりも生活の場としての「住宅建築」の方が強いと感じるという作家。それではまるで、ショップのショーケースに展示されたマネキンのようなものである。マネキンには血肉は通わないが、人間の表層を裏返してみるとマネキンになるとでも言うのだろうか。 いや、そうではない。血肉の存在は描かれていなくとも、松井沙都子の作品には必ず血の通った存在が漂っている。それを視覚的に表そうとしていないだけであって、やはり「チリリ」や「ひんやり」を生じさせるのは、人間という存在でしかないのである。お化け屋敷に脅かし役のお化けが出なかったらそれこそ怖いように、本当の恐怖とは不在そのものであり、言い換えれば松井沙都子の作品に漂う安穏は、作家の意図に反することなく存在するものだと気づく。

※全文提供: gallery neutron

最終更新 2009年 6月 09日
 

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