| EN |

中里伸也:He said, ”these things themselves don’t matter at all.
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2011年 9月 13日

画像提供:SOH GALLERY K3 | Copyright© Shinya Nakazato

最初に中里伸也の作品をみたときの印象は強烈なものがありました。アジェの写真と見紛う写真がそこにあったのです。

彼はパリの街角を細密に手作りで再現し、それを写真に撮りセピア色に仕上げていました。進化していく写真は次には静物画になっていきます。壜や壷を彩色し、構成し、少し暗い色調に仕上げて行き、あたかもセザンヌの静物画と思われるように、リンゴをテーブルに並べ構成していきます。これは彼が1年暮らしたパリで制作しました。長い時間が1枚の写真に執拗なまでに流れています。

今まで具象的なものを手がけてきた中里が初めて抽象の形を模索しています。今展覧会に出品する写真は、むくむく動き出すように描かれた抽象的なフォルムの絵画と彫刻、それが壁や床との関係に終始しているのです。

言葉で中里の写真を表現するのは難しいと思われます。しかし、表現は少し古いが、通常写真呼ばれる表現とは一線を画すものだと思います。

近代写真はアジェから出発、と言われていますが、アジェからスタートした中里は正統的な写真技法から出発して、どんどん進化しながら現代美術の写真へと転化し、未来に期待の持てる作家なのではないでしょうか。

「He said, “these things themselves don’t matter at all.”」
昨年、一年間のパリ滞在の機会を得る。
今回の展示はその滞在中に制作されたものと、その帰国後に制作された二つのシリーズから構成されている。

もしも「そこにいるはずの話し相手=死者」とする表現が許されるのであれば、パリ滞在中の制作は、その「話し相手」をさがしもとめた作業だったように思う。なぜそのような思いに至ったかといえば、ペール・ラシェーズ墓地からほど近い場所のアパートに滞在していたからかもしれないし、不慣れな海外生活での疎外感からかもしれない。実際には、大小の木製パネルを買い込み、自室にこもり、それらのパネルへ雑誌やら広告やら、手に届く全ての印刷物をひたすらにコラージュしては、それを剥がすといった行為の繰り返しであった。その過程を撮影したものが今回の作品のベースになっている。今、当時を自己反省的にふりかえり、そして出来上がったものといえば、その「話し相手」が、例えば地中深くにいたとして、それとの出会いを希求し、無我夢中で穴を掘り続けたけれども出会いはかなわず、降参して、その帰結としての、あるいはこの断念を記憶にとどめるための、その掘り起こされた穴のため積上げられた「残土の山」の記録なのだと思う。

帰国後は、そのパリで掘り起こした穴をどうするのかが目下の課題だと感じていた。さらに掘り進めるのか、埋めてしまうのか、それともそのままにそこを去ってしまうのか。数点の大型のものはそのような課題をふまえた上で、これから制作されうる作品のための「古典画家的な意味でのドローイング」といった側面も否定できないかもしれない。
-2011年8月 中里伸也

全文提供: SOH GALLERY K3


会期: 2011年9月10日(土)~2011年10月2日(日)
会場: SOH GALLERY K3

最終更新 2011年 9月 10日
 

関連情報


| EN |