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conditioned air 調律された写真
編集部ノート
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2011年 7月 20日

古屋和臣《My Sputnik》
画像提供:アキバタマビ21
Copyright© Kazuomi Furuya

    スナップショットでは捉えられない瞬間というものが、あるのかも知れない。本展を観ていると、そんな思いに駆られる。展覧会場に並ぶ写真は、現場で場を共有してフレームに切り取られる一瞬では無い。第三者からの眼差しによる、「日常生活」の風景の再発見と言えるだろう。日常の中に、こんな場面があったのか、と、驚かされる。
    参加作家・古屋和臣の、どこかの家族らしき人物たちを真上の空から撮った写真には、地面に芝や桜の花びらが散らばる。芝の茂みの塊や、地面に散らばる花びらの一枚一枚と、一家族の集りとが、全く等価に「一単位」として撮られ、超越した眼差しを感じさせる。母親の腕に抱かれて上空を見ている赤ん坊のみ、どの作品でも写真を正面から見据えているのが面白い。いつの間にか、超越して観ていたはずの鑑賞者自身も、赤ん坊に観られることによって、その「一単位」の中に取り込まれてしまう。
    このほか、街中の建築物等の色彩や構造を、建物の垂直の線で区切る画面構成のようにして切り取った飯沼珠実の写真に日常生活の中にこんな風景が切り取り得るのかと驚かされたり、置かれたガラスコップの光の屈折によって一部が白く抜けて見える様子をカメラで捉えた金瑞姫のモノクロ写真、また、光の集積によって写真上では白く抜けたパソコンのディスプレイ画面を見つめる人々を撮影した土田祐介の作品、白色と黒色が交互に移る映像作品で画面に光を感じさせる作品や、黒い背景を背に柔道をする人物の動きをシャッターを開きっぱなしで撮ったであろう写真で動きを取り込む佐藤紀行の写真が並び、日常の中で見ているはずで観ていなかったものが鮮やかに切り取られている。
    ちょっと離れたところからのほうがリアルに現実を捉えられてしまう現代の眼差しが、そこには写しこまれているのかも知れない。

最終更新 2011年 7月 20日
 

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