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『祝の島』纐纈あや監督インタビュー(2/2ページ)
特集
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2011年 5月 01日

―今回、映画を撮ろうと決めたきっかけは何かあったのでしょうか?

監督:きっかけは、前にお話した、写真集を見たということと、その後の心境の変化ですね。ポレポレタイムス社を辞めて、しばらくOLに戻ったりしていたんです。本橋さんの事務所にいたころから、写真集を作ったり、上映会の事務局をしたり、本橋さんの3作目の映画『ナミイと唄えば』(2006年)ではプロデューサーをさせて頂いたりして、いろんなお仕事をさせて頂いていたのですが・・・ドキュメンタリーというのは人と関って、その人生に踏み込んでいくので、責任重大なことで、そのことに疲れきってしまったんですね。映像の世界にも向いていないと思って、事務所を辞めました。全然違う仕事をして、もう一度、自分が何をしたいか探そうと思ったんです。それで、大手の外資系IT会社に派遣で行って、毎日朝9時から夕方5時まで、きっちりその時間の中でとにかくパソコンに向って、隣の席の人にまでメール連絡、みたいな状況で(笑)、そんな仕事をしていたら、強烈に人と関りたいって思うようになっていました。

その時に、人と関るのって苦しみと喜び両方あってのことなんだな、って思うようになりました。わずらわしさや、面倒くささもあるけれど、人と関れる楽しさとか喜びとか、感動とか、そういうこと全部ひっくるめて人と関るっていうことなんだなぁ、って。その中で映像表現というのは、カメラを持っている者と写される人との人間関係の「関り」を表現できる媒体だということに気がつきました。

―映画と人との関りというのがあるんですね。

監督: 本橋さんの『アレクセイと泉』という映画に私はすごく影響を受けたのですが、もう一つ、ちょうどその頃に小川紳介監督の『満山紅柿 上山―柿と人とのゆきかい』※3 という映画を観たんですね。山形県の上山というところの干し柿作りを淡々と写している映画なんですが、カメラを廻していると絶妙なタイミングでいろんなことが起きてくるんです。それは、偶然撮れているということではなくて、監督がその村の人と土地ときちんと結びついて、居るべき場所で居るべき時に居るべきポジションでカメラを廻しているからこの瞬間がひきよせられてこの時間を撮ることができているんだ、と強く感じられたんです。その時に、「映像ってこういうことができるのか!」、と思って、良いなと思ったんですよね。それで初めて、自分で映画を作りたいと思いました。その映画のエンドロールが流れている時には「自分の映画を撮るならどこに行こうか・・・、祝島しかない!」、って思いました。5年前に、たった1回しか行ったことがなかったのだけれど、祝島なら私が撮れるものがある―というか、関りたい人がいると思ったんです。それが映画を撮るって決めた瞬間でした。そのすぐ後に本橋さんに「祝島のドキュメンタリー映画を作ろうと思うのですが・・・」と相談をもちかけて。そうしたら「やろう、やろう!」ということになったんです。

―映画の中では、島の人たちの生活に深く関わっていなければ撮れないシーンも沢山出てきますね。
例えば、おじいちゃんやおばあちゃんが夜に集ってお茶を飲んでいる時に、もう明日死ぬかもしれない、なんて自分の余命を予測しながらお喋りする一方で、自分の祖先や孫などを思って話をしていて、時間のスパンを長く持っていらっしゃるのが印象的でしたが…

『祝の島』より
Copyright © www.hourinoshima.com 映画「祝の島」事務局
画像提供:ポレポレ東中野

監督: そうですね。私も編集をしている時に気付いたのですが、島のかたが皆、今はもう既にこの世にはいない人の話をしてくれるんです。連れ合いとか、お父さんとか、ご先祖とか。亡くなった人の話をしてくれるのと同時に、子供や、孫、これから生まれてくるであろう未来の子供たちのことも言うんです。そのことが皆さん共通していて。それって、今は目の前にはないいのちのことを話しているんだっていうことに気がついたんです。亡くなっているいのちと、まだ生まれてきていないいのちのこと。その綿々と連なるいのちの流れの中に、今の自分たちのいのちもある。その感覚をもって、島の人たちは日々暮しているのだと思いました。

今も福島第一原子力発電所のことで日々揺れているけれど、原発っていうのは、時間に対する想像力と、目に見えないものに対する想像力、その二つの想像力がないと、その怖さとか影響による被害がいかに深刻なものかというのを掴めないんじゃないかと思うんです。原発の放射能汚染というものも、自分の体に影響が出るのは10年後か20年後かも知れないし、自分には出なくても子供に出るかもしれない、次の代に出るかもしれないわけです。そして放射能というものも、目に見えないもので。匂いも味もしない、痛みもないわけで。長い時間でものを考えるということと、目に見えないものへの想像力が、現代社会が一番苦手としているもので、原発ってそこをついているものだなあと思うんですよ。今、一分一秒で時間を刻んで生きているけれど、何千年後か先のことを想像する感覚がないと、原発に頼っていて良いのかということも答えが出てこないと思うんです。祝島の皆さんが亡くなった人やこれから生まれる子供たちのことをさらっとお話していたことが、本当に凄いことだなあと改めて思うんです。

―映画を観ていて、こういう生き方ができるんだと思ったり、自分もいつの間にかそういう風に生きていなかったと気付かされて、はっとしたりしました。
映画の中では長年続くお祭り、神舞神事のシーンも出てきますね。

監督: クランクインが、お祭りの準備から始まったんです。この祭りを撮っておかないと、次回は4年後になるというので、とにかく祭りから撮り始めようと思って。神舞は今から約1000年前に京都の岩清水八幡から大分に帰る途中の船が難破して、その人たちを助けた際に島に農耕文化が伝わって島が発展してきたといわれています。

その1000年という時間の流れが脈々と生き続けていて、島の歴史の象徴のような気がしました。しかし、一時原発の騒ぎで中断したりもしたんです。12年間の空白が開いたわけです。祭りのことを記録されている文書というのもあまりなくて、復活するのには大変な苦労があったと聞きました。島の人たちにとっては、自分たちのルーツそのものであるようなお祭りなわけで、島での重要なこととして撮影しました。

お祭りは、海からカミサマが渡ってくるというのがとても印象的、象徴的で。島の暮しを見ていると、すべてのものが海からやってくるんですよ。それこそ情報も、物も、神様だって海を渡ってくるんです。海は生活の場所でもあり、交通網でもあり、聖なる場所でもあって。私は東京生まれ東京育ちなので海が側にある暮らしの体験がなかったのですが、島にいると、海は島と対岸を区切るものではなくて繋げるものなんだと実感しました。

―映画を撮り終わってから、島での上映の際にはどんな反応がありましたか?

監督: 映画が完成してすぐに見て頂いたのですが、すごく喜んで頂けました。会場に入りきらずに、廊下から見てもらったりした人もいたりして。

皆さんおおいに爆笑したり、「ああだこうだ」とスクリーンに向かって色々と言いながら、見入っていました。特に、嫁ぎ先の義父母が熱心に反原発運動をしていたノリちゃん(橋本典子さん)が、「(原発反対運動を続ける時には)お義母さんが背中についちょるような気がする」という話をした時には、会場にいる皆さんが全員一緒に泣いているように見えました。皆さんが、原発に反対し続けていながらも亡くなっていった沢山の人たちのことを思い出しているような気がしました。また最後のほうで、漁師の奥さんのエミちゃん(正本笑子さん)が「人間の心理というものは反対派も推進派も皆同じと思う。」「(原発設立問題が起きるまでは)兄弟みたいにしよったからね。だから原発問題は、人間の心をズタズタにする問題と思う。」と言ったときには、皆さんが深く頷いていました。未だに推進派と反対派との溝は深いものがありますが、でも辛いのはみな同じ、って言葉に誰もが頷いている、そう感じられました。上映中、観てくださっている島の人たちそれぞれの30年がスクリーンの前にぎゅっと集ったような瞬間があって、それは凄く重い時間でした。

上映が終わった後には、「あやちゃん、良くやってくれたなー!」って、握手してくれて、本当に嬉しかったです。

―ご自身の中では変化はありましたか?

監督: 映画を撮り終わってというより、島の人と出会って自分は変わったと思います。

震災があったその日から山梨で3日間上映をすることになっていたんです。さすがに震災当日は停電で上映できなかったのですが、車で東京を出て10時間かけて山梨に着いて、次の日は、「こういう時だがら上映会をしたい」と現地のかたが言ってくださって上映をしたんです。福島第一原子力発電所一号機の事故が報道されていて、菅総理が記者会見をするというので気になって一人で上映会場を出てニュースを見ていました。総理の言葉からは、なんの心も伝わってこなくて、それは今まで日本国民が「まあ、原発良くないとは思っているけど電気が足りなくなるから仕方ない」と思って積み重ねてきた行為すべてが、今、崩れ去ったんだと思ったんです。その象徴が総理の記者会見、あの生気のない我が国のリーダーの姿なのだと思えてなりませんでした。

そしてまた上映会に戻って、島の人たちがスクリーンに映しだされた時に、この人たちは、「一番大切なものはこれだ!」と絶対に手放さず、誰にも委ねないで守り続けてきて、聞き届けられなくてもあきらめずに言い続けてきて、だからこそ今の祝島の暮らしとあの美しい景色と、あの誇り高き島の人たちの姿があるんだなあ、って思えた。記者会見の総理の姿を見た後の祝島の人たちの姿は、鮮烈でした。

大切なものを大切なこととして自分できちんと認識して、しっかり手の中に握り続けることを私は島の人たちから教わりました。今は祝島になかなか行けないのですが、自分がしている一つ一つの言動が大切なものに繋がっているものでありたいし、自分を甘やかさないで、祝島の人たちに恥ずかしくない生き方をしなきゃと思っています。私が大切だと思って積み重ねていることが、廻り廻っていつか祝島に還っていくことを心から願っています。

(-2011年4月15日、ポレポレ東中野にて。)


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脚注
※3
『満山紅柿 上山―柿と人とのゆきかい』、【第一期撮影】1984年、監督:小川紳介 【第二期撮影】1999年、監督:彭小蓮(ペン・シャオリン) 【仕上げ】構成・編集:彭小蓮(ペン・シャオリン)
小川伸介没後(1992年)、ペン・シャオリンの手で未編集フィルムに追加撮影分を合わせて2001年に制作されたドキュメンタリー映画。


参照上映作品

纐纈あや監督『祝の島』
上映: 2010年4月23日(土)-2011年5月6日(金)
会場: ポレポレ東中野(http://www.mmjp.or.jp/pole2/
『祝の島』公式ウェブサイト:(http://www.hourinoshima.com/

最終更新 2015年 10月 13日
 

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