『祝の島』纐纈あや監督インタビュー |
特集 |
執筆: 田中 みずき |
公開日: 2011年 5月 01日 |
4月23日(土)から5月6日(金)にかけて、ポレポレ東中野で、原発・核実験に関する映画を集めた特集上映[25年目のチェルノブイリ]が開催される。本上映会は、2008年からオールナイト等で続けられていたものだが、今年は目黒区美術館で4月に開催が予定されていた「原爆を視る」展とコラボレーションを試み、例年より大規模に開催されることになった。「原爆を視る」展は、3月に起きた東日本大震災による福島第一原発事故の影響を考慮し中止となってしまったが、ポレポレ東中野の上映会は改めて原発について考える機会となるだろう。 上映作品は、原発跡地が舞台かと想像される、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(1979年)などの劇映画や、ドキュメンタリー『ナージャの村』(本橋成一監督、1997年)、『ヒバクシャ世界の終わりに』(鎌仲ひとみ監督、2003年)等に加え、原子力発電所を作る際にPRとして作られた『原子力発電の夜明け』(森田実監督、1966年)や原発関連の新聞のスクラップを小沢昭一の軽妙なナレーションでまとめた実験映画『原発切抜帖』(土本典昭監督、1982年)、また、映画館ではなく、学校や地域のホールで公開されていたスライド作品『ひろしまを見た人―原爆の図丸木美術館―』(土本典昭構成、本橋成一写真撮影、1985年)、『チェルノブイリいのちの大地』(西山正啓構成、本橋成一写真撮影、1993年)など。 本インタビューでは、今回の上映作で2010年に完成した『祝(ほうり)の島』※1 の監督、纐纈あや氏にお話を伺った。本作は、約30年前から原発設立に反対している山口県上関町の祝島の人々を撮ったドキュメンタリー。祝島の対岸が上関原子力発電所の建設予定地となり、海の汚染を危惧してデモを行い続けている島民の日常を追う。綺麗な海で魚にやさしく話しかけるようにして漁をする漁師や、厳しい岩山を切り開いて耕された畑で細やかに作業に向き合う農家の姿、また夜に皆で集ってお茶を飲む老人たちや笑いを巻き起こす集会など、ゆるやかに流れる日々の生活の中で自然と反原発デモが行われる様子に心が掴まれる。 現在、東日本大震災による福島第一原子力発電所での原発事故を機に日本各地で反原発デモが行われるようになった。祝島の反原発デモは現在も続いているが、これを機に反原発デモの先駆例の一つとして見直したい映画だと考え、インタビューを行った。 ―映画を観るまでは、反原発の活動ということで、緊張した状況の中で険しい表情でするものだと思っていたのですが、祝島では皆が本気で集りながらも、ゆるやかな時間の流れの中で自然にデモが行われていてびっくりしました。 監督: 島の人たちの原発反対って、ものすごく身体感覚に染みついているものだなあと思うんです。そもそも島での生活自体が毎日身体を使って働いているし、海と山に生かされているのも自分たちの身体だし、長年にわたって刻まれてきた身体の記憶というようなものがあると思うんです。島のおばあちゃんたちは、頭の中で理論を駆使して反対するのではなく、経験的・身体感覚的に「嫌なものは嫌」ってきっぱり言い切ってしまえる。今の現代生活の中では薄れてきている、自分たちを根底から支えるものが島にはある。だから私はものすごくあの島に惹かれたんだと思います。 ―映画の中では、デモの様子も写されますが、島の人たちが海で漁をしたり、岩山を切り開いた畑で農業をしたりといった普段の仕事の様子や、おばあちゃんたちが夜に集ってお茶を飲んでおしゃべりする姿等、ゆったりとした生活の描写が丁寧に撮られていますね。 監督: 映画の中で、どうしてあんなに暮らしの描写にこだわったかというと、島の人たちが何を守ろうとしているのかを私自身が見たいと思ったからなんです。 何かを知る時って、大抵の場合、問題が起きてからそのことを知ることが多いですよね。そしてようやく、その場所に居る人を知って、情報やデータを得て、それぞれの立場の人の話を聞いて、それで問題を知ったような気になる。でも、一番知らなければならないのは、そういうことなのだろうかと思ったんです。マスコミには島の人たちの抗議行動ばかりが取り上げられて、何を守ろうとしているのかという、「何」の部分はいっこうに映し出されない。それは、今のマスコミにも、その情報を受け取る私達側にも、「知る」という行為において決定的に欠落している意識ではないかと思います。テレビだと、暮らしを撮るには長い時間がかかるし、分かりにくいし、オチはつきにくいし、OAの時間にも制限があったり、スポンサーがいたりという条件の中では、なかなか難しいわけですが・・・私はフリーなので。だから2年間とにかく島の暮らしにこだわって、ああいう地味ぃーな映画になりました(笑)。 ―確かに派手な生活では無いですが、島の人たちの会話が面白かったり、長く生きてきたおじいちゃんやおばあちゃんの生活の様子がぐっと心に迫ってきたり、何気ないようでドラマチックですよね。デモそのものではなく、守ろうとしている生活を撮ろうと思うきっかけのようなものは何かあったのでしょうか? 監督: ある写真がきっかけですね。 ―この映画では、データを出して原発の悪影響を伝える啓蒙的なものとは違って、デモの状景もありながら、祝島の日常の「人の生活」というものが撮られていますね。映画を撮っている時には、「デモを撮ろう」という意識はあったのでしょうか? 監督: 祝島が原発に反対しているということは、皆さん知っていると思うのですが、島の人たちが何を大切にしているかを知りたいと思ったし、できることなら私もそれを大切にしたいという気持ちがありました。じゃあ島の人たちの大切なものって何だろうと考えたときに見えてきたのが、日々の暮らしだったんです。だから逆に、デモや抗議行動をどう撮っていけば良いだろうか、というのが私の中ではじめ、わからなかったんですよね。でも通い始めてわかったことは、島の人たちの暮らしの中の一部に原発反対運動がしっかりと根付いているということでした。今の暮らしを続けるということと、原発に反対するのはイコールなのだ、と。島の人たちはそのことを明確に意識しながら暮らしていて、週一回は集まってデモをして、何かあれば抗議行動を起こして、ということを自然にしていたので、デモも抗議行動もあの日々の暮らしの一コマに入れていくということだと思うようになりました。 だから抗議行動も、島の人たちと同じように動いていったという感じですね。私の中で、意識していたことは、どうやって島の人たちと同化できるか、ということで…もちろん島の人たちと完全に同化することはできないのだけれど、あの島の人たちそのものを映像で表現したいと思い続けていたんです。 島の人たちにとっての反原発への切実さは、言葉やデータ、ナレーション等では表しきれないとも思っていました。それを映像にどうしたら映し撮っていけるのか、ということを考え続けた撮影でしたね。それは日々の暮らしをただひたすら撮っていく以外にはなくて。あとは最後の最後にインタビューでお話しを聞くという形になりました。 ―インタビューでは、実感のこもった印象的な言葉が続きますね。 監督: インタビューは、するつもりがなかったんです。言葉にしてしまうという事に対して、私の中では怖さというのがあって。例えば「原発に何故、反対しているのですか?」と聞いて、「これこれこうだから」と答えてもらったら、それでわかったような気になってしまうのが嫌だったんです。言葉からこぼれ落ちてしまう部分があると思うし、その言葉さえ出せば観ている人が納得できてしまうというような、そういう話しの使いかたをするのも嫌でした。だからインタビューは、自分の中では禁じ手にしていたんです。 でも、島の人たちとの関係性ができてきた時、島の人たちそれぞれが思いをしっかりと言葉にして持っているということに気がついたんです。だから情報として聞き出すとか、納得したいから聞くということではなくて、その人そのものの言葉として記録しようと思うようになりました。それまで、カメラを廻さないところでは何度も皆さんにお話しを聞いてきましたが、最後の最後でカメラを廻しながら話を聞いた時には、私もカメラマンの大久保(千津奈)も、「本当にそうだな」と自分たちに言葉のひとつひとつが染み込んでくるように感じました。そういう話を聞かせてもらえたというのは、自分たちにとっても大切な経験になりました。 ―島には、『祝の島』を撮る前から行っていたのですか? 監督: 撮影のために通い始めたのは、2008年の3月からだったのですが、それ以前の2003年に私は本橋成一監督の事務所で働いていて、本橋監督の『アレクセイと泉』(2002年)※2 という映画の上映会が祝島であったんです。その時に行ったのが初めてでした。上関原子力発電所にずっと反対しているというのはその時に初めて知りました。閉鎖的な戦いの島だろうと勝手に思い込んで、どんな顔をして行ったら良いんだろうとか、自分に何かできるだろうかと思い詰めてすごく緊張して行ったのですが・・・島に降り立った途端、ぜんぜんイメージと違うんですよ。悲壮感の欠片も無い(笑)。「いよぉ、おねえちゃん、どっから来たー?」「あんた若いなあ。」「体大きいなあ。」「これ美味しいから食べてけ」って。島の人たちの顔を見ていたら、なんだかとっても信頼できる人たちだなというのを感じたんです。同時に、故郷というか懐かしい所に戻ってきたという感じがして。 ―その頃から映画にしようと思っていたのですね。 監督: いえ、私は本橋さんの事務所であるポレポレタイムス社で5年ほど仕事をしていたのですけど、自分が写真や映画を撮るということを目指していたわけではなく、本当に事務スタッフとしていたので、自分で映画を作るなんて夢にも思っていなかったんですよ。 それでも、強烈に、「この島は面白いな。この島はきっと映画になるような所だな。」とは思って帰ってきて、その後も常に祝島のことは「どうなっているだろう」と気になっていました。 脚注
参照上映作品 纐纈あや監督『祝の島』 |
最終更新 2015年 10月 27日 |