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シンチカ
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2010年 1月 31日

fig. 1 Exhibition view: "SHINCHIKA", Ota Fine Arts, Jan.2010|画像提供:Ota Fine Arts|Copyright © the artist and Ota Fine Arts

fig. 2 《yama no michi》 2009年| video| 9'21" 画像提供:Ota Fine Arts|Copyright © SHINCHIKA

fig. 3 《yama no michi》2009年|video|9'21" 画像提供:Ota Fine Arts|Copyright © SHINCHIKA

fig. 4 Exhibition view: "SHINCHIKA", Ota Fine Arts, Jan.2010|画像提供:Ota Fine Arts|Copyright © the Artist and Ota Fine Arts

    インターネットのボタンをクリックすれば地球の反対側にさえ瞬時に繋がってしまう、この現代。自分が何処にいるのか、忘れることがありそうだ。ゲーム画面の中にはCGで作られた世界が広がり、その中では現実よりも自由に動き廻ることができる。東京・中央区のギャラリー・オオタファインアーツで開かれた「シンチカ」展を観て、そんな仮想空間について考えたくなった。手掛けたのは、久門剛史、藤野洋右、藤木倫史郎、吉川辰平、勝村富貴の5人によるユニット「SHINCHIKA」。グラフィックや映像制作、作曲などを行ってきた若手作家集団である。

    ギャラリーのある4階でエレベーターの扉が開いた瞬間、暗闇の中にSHINCHIKA作曲の「S字のカーブ」が響いている。デジタルで加工された音とキャッチーなリズムが心地よい。ドアが無いこのギャラリーで、そこはすでに展示室。鑑賞者はいきなり作品の中にとりこまれる。
    天井からは、自動車用のシャイニングリフレクター(反射板)を取り付けたモビールが幾つも下げられている。小さな円形のリフレクターに、光があたる。遠くから眺めていると、何かわからないものが空中でゆらめき、光の粒子のようだ。しかし近付いて何が動いているのかわかると、それは自動車の全体をもイメージさせる。顔は浮かばないのに声だけ覚えている知人や、味より鮮明に覚えている喫茶店のコーヒーカップなどのように、断片だけの思い出のような反射板とその動き。しかし、そのディティールによって様々な思い出は喚起されていく。寄って来ては遠ざかる反射板からいつかの思い出を誘い出されるように、その奥の展示室の壁にアニメーションが投影されている[fig. 1]。
    流されている映像《山のみち》(2009年、9分21秒)は、若い男女が車で山を登っていく物語だ。実写映像が時折組み合わされるが、大部分は手書き風のアニメーションや、3DのCG、そしてデジタルが身近になり始めた80年代のファミコンに出てくるようなフラットなアイコンなどで作られている[fig. 2、3]。物語が展開していく中、主人公たちの居る場所や、手にするものには共通点がある。例えば、車や電車の中、地下鉄の駅、主人公たちにフラッシュバックで回想される冷蔵庫、そして山の中で手にした、乾電池が抜け落ちる懐中電灯である。唐突に思われるかも知れないが、これらのものは現代の日本における「洞窟」を連想させる。昔から物語の舞台となってきた、地上の世界から隔離され、何かが始まる前の場。しかし、登場人物たちは洞窟的な空間に囚われながらも常に移動し、時には人物はそのままで背景だけが変わり、何処にいるのか実感が持てない。実写でなく、アニメーションやデジタル画像という手法が使われる点でも、何が「リアル」なのか前提からして絶妙にはぐらかされているのだ。また、物語に注目すると、登場する男女は「私」と「君」だけで作られる極個人的な世界の中にいる。主人公である「私」の思い出を観て居るような錯覚にもとらわれる。
    しかし物語は最後に、閉じられた個人的な空間から、開かれた世界へと舞台を変化させる。母胎のような洞窟空間から、富士山のような形の山の噴火を遠くから眺める風景へと変貌するのだ。BGMは穏やかな一日の始まりを伝えるラジオ放送になり、物語り中の「今」の時間が流れていく。いつの間にか画面からはそれまでの物語の主人公達が姿を消し、遠景に焦点が移動して山の下に広がる街の風景が写される。それは、生まれたての人間が眺める世界のようだ。

    日本の現代の漫画やライトノベル、そしてアニメでは、物語の展開に「セカイ系」と言われる一つの流れがある。極めて個人的な男女間の話が、いつの間にか世界全体の存続へと繋がっていくものだ。ネットから派生した概念で厳密な定義は曖昧であるが、現代思想や表象文化論から批評を行う東浩紀(東京工業大学世界文明センター特任教授)や、戦後文学やコミュニケーション論における批評家・宇野常寛(企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主催)などの著作で取り上げられている。主人公の繊細な心理描写が盛り込まれる一方、矮小化された視点と希薄な世界観を問題視する批判もある。《山のみち》は一見、このセカイ系の流れの上に属するものだ。しかし、本作では登場人物の心情や思考の描写といった要素がなく、登場人物と展開の設定だけがセカイ系の流れにある。そして終盤、主人公達が画面から消えることよって本作は「セカイ系」というカテゴライズを大きく外れていく。鑑賞者は物語の登場人物を通じてではなく、自分の眼で世界を眺める状況に立たされる。この作品は物語の世界にいる男女の話で終わらず、鑑賞者が外の広い世界を眺める一番初めの眼差しを作り出す装置なのだ。帰り道、地上階に戻ると、現実界の倉庫と街並みが鮮やかに感じられたのはそのためだろう。
    80年代位からアニメやパソコン、ネット文化などを享受してきた日本の人々にこそ読み取れるものが凝縮されている本作は、同時代に、実際にギャラリーに赴いて鑑賞することの面白さを堪能させてくれる作品だ。海外でどのように鑑賞されるのか、そして100年後にはどう解釈されるかを想像するのも面白い。車の全体を鮮明に思い出せずとも、煌く反射板から記憶がおぼろげに甦るように、作品の残像は何年も先に戻ってくることがあるようにも思う。

最終更新 2010年 7月 04日
 

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