内藤礼:すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2010年 1月 25日 |
照明の落ちた二階の第一展示室。展示ケースに入っている、テキスタイルの上に置かれた豆電球のまとまりが唯一の灯りである。傍らにはリボンやボタンによるままごとの跡のようなまとまりもある。均一のサイズの風船が天井から吊るされ浮かんでいる。観客は展示ケースの中に入ることもできる。その分展示室に奥行きが生まれており、会場が随分広く見える[fig. 1、2]。※1 第一展示室を出、外気に触れ、第二展示室へと入る。再びテキスタイルが敷かれているが、今度は展示ケース内ではなく、床面だ。規模が大きくなっている。暗くもなく、豆電球もない。ミントのような色のテキスタイルが幾枚も重ねられ、草原のごとく展示室の三分の二程度を占めている[fig. 3]。※2 誘われるように第二展示室を出、階段を下り一階に向かい、特徴的な空間である中庭に立つと上空をひらひらと舞うものがある。とても長い、しかし横幅の狭いオーガンジーのリボンが宙を舞っている[fig. 4]。※4 常設のイサム・ノグチ《こけし》(1951年)の上を、彫刻の堅牢さとは対象的に風にゆらめいて軽やかである。
睡蓮の浮かぶ池を臨むと、こちらは半円状のものが宙に浮かんでいる。弧を描くのは、おびただしい数連なった透明のビーズである[fig. 5]。※5 このビーズは二点、一階天井から一直線に垂らされてもいる。※6 透明のビンに入り、表面張力ぎりぎりのところまで満たされた水。一階の床や手すりに点々と置かれている[fig. 6]。※7 これが神奈川県立近代美術館 鎌倉で開催された内藤礼の個展「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」のおおよその情景である。簡素になってしまったが、この簡素さは作品のお手軽さや促される思考の貧しさを意味しない。むしろ逆である。 内藤が作品に用いているのは、決して特別なものではない。テキスタイルはおそらくファブリックメーカーであるリバティ社の既製品であり、豆電球も特別なものには見えない。ビーズやリボンはもちろんのこと、水は言うに及ばない。その点で内藤の手法は他の作家のブリコラージュと大差ないのかもしれない。 しかし、そうして作った作品で、内藤は美術館という空間を本質的な意味で生まれ変わらせる。美術品の墓場とも言われる美術館に流れる死臭を取り払い、生きた場所として新生させる。私たちは通常、展示ケースの中に首を突っ込むこともなければ、展示ケース内部に入ることももちろんない。そこは観客にとって手の触れえぬ、足を踏み入れることもかなわぬ、私たちと「作品」を絶対的に分かつ空間にほかならない。内藤は展示冒頭でその境界を取り払う。暗闇の中の豆電球の灯りは、かそけきものでありながら、だからこそ私のうちに愛しさもまた芽生えさせた。「おいで」と誘われ降り立った空間で「見る」のはリボンではない。リボンをたなびかせる、風の姿である。ビーズが置かれている背景である。水である。 そうして私たちはいつの間にか、そこかしこでこの世界の構造が音もなくめくれ、あらわになっていることを知る。世界はとてもシンプルに、その姿を出現させる。 この世界はありのままで美しい。そう実感をこめて言うことは、簡単ではない。内藤は言葉に依らず、わずかな所作でそれを伝える巫女である。 脚注
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最終更新 2015年 11月 02日 |
暗く、豆電球が灯る展示室。そこであなたは展示—ケースにも入ることができる。テキスタイルが敷かれた展示室。あなたはそこで一枚の紙を手にする。それにはきわめて小さく文字が印字されている。反転しているから注意深く読んで欲しい。そうして降り立つ一階では、ひらひらと中空に浮かぶものがある。きらきらと空間を切り取るものもある。それらの素材は特別なものではない。見慣れた空間を一変させる、見慣れたものを使った作品がそこかしこにある。 神奈川県立近代美術館 鎌倉はこれほどに「広い」空間だったか?板倉準三の設計によって一九五一年に完成した本館は、六十年近く経った今の目線から見れば決して広くはない。一階の一部も耐震性の問題のため使われていない。にもかかわらずこれほど広さを感じさせるのは、内藤礼の傑出した空間処理能力が成せる技だ。展示室に足を踏み入れれば、途端に内藤の世界に引き込まれるだろう。