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鷹野健 展
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 12月 14日

fig. 1 《G-flower garden》2009年|ink・oil on wood 65.2×53cm
画像提供:鷹野健|© Takeshi TAKANO

fig. 2 「鷹野健展」(表参道画廊)展示風景
撮影:松崎司|画像提供:鷹野健|© Takeshi TAKANO

fig. 3 「鷹野健展」(表参道画廊)展示風景
撮影:松崎司|画像提供:鷹野健|© Takeshi TAKANO

写真を撮る。撮った写真をインクジェットプリンターでフィルムに出力する。フィルムはインクを吸わないため、インクは乾かない。その状態のフィルムを、パネルや紙といった支持体に少量の水を加え転写する。すると、支持体とフィルムの間に空気が入る。その空気が白く抜け、結果として画面にはいくつもの水滴のようなものが立ち現れる。

こうして制作される鷹野健(1980年生まれ)の作品は[fig. 1]、はたしてなんと呼べばよいのかという問題がまず横たわっている。写真でもあり、版画でもある。しかしそのどちらの要素でもある複製性は鷹野の作品にはない。同じ写真を使おうとも、作家のコントロールを離れたところで偶然が多分に作用し、転写後まったく同じかたちが現れることはありえないからだ。

その点で、鷹野の作品はデカルコマニーと近しい関係にある。自動記述=オートマティスムしかり、無意識に価値を置いたシュルレアリストに好まれたデカルコマニーは、日本ではシュルレアリスムの紹介者である美術評論家・瀧口修造(1903-1979)が晩年自ら実践したことでも知られている。ある支持体に置いた絵具を別のそれに転写することで生まれる予想もできない色・かたちの饗宴は、作者の意図を超えたところ—無意識で作られると歓迎されたのだ。ただ、シュルレアリストが作品から意識を取り除かんと欲していたのは彼らの生きた時代性ゆえとも考えられるだろう。すなわち、アンドレ・ブルトンを始めシュルレアリストが政治に対してきわめて強い関心を持ち、発言もしていたことを思い起こせば、彼らにとってオートマティスムやデカルコマニーはある種のイデオロギーからの脱却としての武器だったのではなかったか。オートマティスムも必ずしも完全な偶然の元になされたものではなかったことが明らかにされているが、それでも彼らが現実を撃つ手段として偶然や無意識に大きな可能性を見出していたことは間違いあるまい。

対して、鷹野の作品はそのような意図の元に制作されているわけではない。鷹野の作品はリアルな政治に直接結びつかず、現実との関係をむしろ曖昧でぼやけたものとして捉えるための手法の採用と考えられるからだ。転写時にぐにゅりと色と色、かたちとかたちが混ざり合ったのだろう。いずれの作品も明確な像が結ばれておらず、かつ水滴のようなものがフィルターをかけるように私たちの前に立ちはだかっている[fig. 2][fig. 3]。それにより元のかたちが何だかわからないものも多い。よく見ればそれらは人だったり風景だったりし、鷹野が日常的に目にしている光景なのだが、私の視界に映るのは茫漠としたものばかりである。その点では敵の存在を想定していたであろうシュルレアリストの問題意識とは真逆である。が、むしろ今の時代は鷹野のそれこそリアルであるという逆転がある。ブログ、SNS、Twitterなどインターネットサービスの煽動によって自身の情報をリアルタイムで公開することに躊躇がない人は少なくない一方で、その実、周囲とのリアルな関係は曖昧でぼやけたものになっていないか。鷹野が意図的に撮っている写真を元に、最初は偶然、作品を作る過程で現れた予期せぬフィルターには、そういう気分が映り込んでいる。その意味で鷹野の作品は、現代という時代の転写である。私たちはその曖昧な像が、同時に儚くも美しくも見えることについても思考する必要があるだろう。

最終更新 2015年 11月 02日
 

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