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尾形一郎・尾形優:HOUSE
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 12月 02日

fig. 1 ≪ギリシア:鳩小屋≫画像提供:フォイル・ギャラリー|Copyright © Ichiro OGATA

fig. 2 ≪中国:洋楼≫画像提供:フォイル・ギャラリー|Copyright © Ichiro OGATA

fig. 3 画像提供:フォイル・ギャラリー|Copyright © Ichiro OGATA

fig. 4 画像提供:フォイル・ギャラリー|Copyright © Ichiro OGATA

    笑った顔、怒った顔、誇った顔、おどけた顔。顔は、人間にとって大事な表現手段の一つだ。我々は、首の上の頭部に付随する周囲を知覚するための目や耳や鼻、栄養分を体の体内に入れるための穴である口などの諸器官やその周りを歪めることで、あるいは歪めるべき時に全く歪めないことで、ある特定の意味や感情を他者へ伝える。時に顔は、言語よりも瞬発力があり分かりやすい。更に顔は、ある特定の意味を伝達することだけでなく、さまざまなことを人々に読み取らせる。誰それは誠実そうだとか高慢そうだとかといったその人の性格的な面、貧乏そうだとか高貴そうだとか、スラブ系だとか蒙古系だとかなどといったその人のステイタスや出自に関わるもの、あるいはもっと端的に美人だとか醜悪だとか、といった審美的な部分に関わるものなど、顔は多くの情報を人に与えてくれる。それに顔は、何らかの諸事情によって顔を隠さなければならない場合を除けば、基本的にはいつもむき出しで他者に開かれている。

    建物にとっての顔は、その表面、すなわちファサードにある。ファサードはその建物の出自を明らかにし、同時に現在の状況も見せてくれる。人間の顔と至っておんなじだ。例えば、尾形一郎が撮影したギリシアの鳩小屋[fig. 1]はしゃれこうべのような顔をしている。全体的にずんぐりとした野暮ったいかたちは、その顔の造作ともあいまって極めてユーモラスだ。

    この建物の朽ちた様子や人の気配のない周囲の様子などを勘案すれば、それが廃墟であることが類推される。この廃墟のような白亜の建物は、地中海特有の抜けるような青空を背景に捉えられ、その異質さが際立たせられている。それ故それは、それ自身で自律した何か、つまり何か人格を持った顔のようにも見えてくる。それは、旅立った鳩を迎えるために、廃墟になったあとも笑顔で彼らを待っている。旅立った鳩は戻ることはない。けれども今は野性の鳩が、寝床にしている。

    香港の楼閣[fig. 2]は、また別の意味で異質だ。この楼閣は一見西欧風に見える。しかし、この建物を取り囲む周囲は刈り取られた稲の穂であり、明らかに西欧の風景ではないことが分かる。市街地に建てられた西欧風の建物[fig. 3]も同様だ。極力、人を排したこの写真では、西欧風の建物と中国語の看板の組み合わせによって、一種ハイブリッドな異空間が展開される。尾形自身の言葉を借りれば、それは「映画のセット」のような異質さだと言えよう。

    これらの建物は19世紀、西欧文化に触れ、憧れた中国人たちの手によって建てられた。当時、このような西欧風建築を建てるということは、恐らくひとつのステイタスだったのだろう。その意味で、この建物のファサードは自己のアイデンティティから切り離された自己の理想像ともいえる。換言すれば、このファサードは作り笑顔、より肯定的に言えば、社会的な表情だ。ファサードは、その顔の持ち主のステイタスを明らかにしてくれもするが、それはある戦略に基づいてそれを隠したり誇張したりすることが可能なのだ。

    それではファサードの内部はどうなっているのだろう。「ファサード=顔」が他者に開かれ、時としてそのステイタスやアイデンティティを偽装するならば、他者に開かれた顔によって閉じられている顔の内部には、その人の本当の「私=主体」が隠されているのだろうか。

    ナミビアの砂漠に打ち棄てられた建物の中[fig. 4]はがらんどうで砂が堆積し、空虚な空間が広がっている。なだらかな砂紋は、その地が誰にも踏み荒らされていないことを示している。このように尾形の写真によって明らかにされた「ファサード=顔」の内部には、空虚な空間が広がっていた。そこには本当の「私=主体」が確固たるものとしてあるわけではなかった。だがそれでも手掛かりが全くないということもない。例えば、電気系統が整っていることを示す電盤や配線は、この荒涼とした地において文化的な生活が営まれていたことを静かに示している。ささくれ立った壁紙には、カラフルな文様が描かれている。それは、荒涼とした土地の中で働く彼らにとって、幾許かの心の安らぎを与えたことだろう。こうした痕跡は、ここに住んでいた人々の心のありようを端的に表してくれる。

    尾形が撮影したこの建物は19世紀末、この地でタイヤモンドが発見された時、同地に移住してきたドイツ人たちのものだという。同地のダイヤモンドが採掘し尽くされたあと、街はゴーストタウンと化した。人がいなくなってから約半世紀、砂に埋もれながらも彼らの痕跡はこんな風に残っている。それは確固たる「私=主体」を表すものではないが、その痕跡を、あるいは断片を垣間見せてくれる。

    このように捉えたとき、写真家の尾形一郎と建築家の尾形優による建物の外壁であるファサードと内部構造の写真は、建物のステイタスやアイデンティティに関わってくるということがよくわかる。ファサードは時として、中国人が西欧風の楼閣を築き、己をよく見せたいという思いによって、自身の出自を隠しつつも、しかしそれ故に自身の自意識を曝け出してしまうといったような捻じれを見せる。一方内部構造は空虚で、一見雄弁に語りかけはしない。それでもよくみれば、ナミビアの写真のように、同地の彼らの営みの痕跡を砂丘の中から救い取ることができる。建物のファサードと構造、どちらかに建物の本質があるわけではない。けれども私たちの本質が顔や内面にどちらかに属しているものではないのと同じように、ファサードと構造は、ひとつのものとしてつながっていて、本当のことを言ったり嘘をついたりして、あるいはそのどちらでもないこと言って、私たちに様々な表情を見せてくれる。

最終更新 2011年 10月 31日
 

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