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大竹伸朗 直島銭湯「I♥湯」
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2009年 10月 12日

大竹伸朗 直島銭湯「I❤湯」2009年|撮影: 渡邉修|画像提供:財団法人直島福武美術館財団

    毎日、コラージュブックにピンナップなど暮しの中で見つけたものを貼り付け、上から絵具でペイントする制作を続けてきた現代美術家・大竹伸朗が、今回は日常で使う「生活の場」を作り上げた。銭湯である。
    銭湯といえば、寺社のような建築や浴室の壁に描かれた富士山の絵といった純和風のイメージが強い。だが今年の7月、香川県の直島に大竹が作った銭湯、「I♡湯」は全く様相が異なる。入り口の屋根には、グラマラスな女性のシルエットを表した看板が乗せられ、建物側面の黄色や緑の壁には象の写真や、女性のピンナップが貼られている。そのほか、船のコックピットの一部や熱帯の植物、インドネシア製の模様入りタイルが壁一面を覆いつくす。賑やかで暑い南国の建物のようだ。
    一見、とりとめのない物の蓄積のようだが、しばらくするとそれが大竹という作家の視点によって選び取られたものだということがわかってくる。本作は実際には大竹のみによる創作ではなく、建築はクリエイティブユニットgraf、植物を東信(あずま・まこと)が手がけ、コラボレーション作品となっている。また、建物裏側の壁面に描かれた富士山の絵は、ペンキ絵師・中島盛夫によるものだ。ただし、作品全体の方向性は大竹がプロデュースしている。その大竹の世界に体ひとつで侵入できるのがこの銭湯の醍醐味だ。

大竹伸朗 直島銭湯「I❤湯」2009年|撮影: 渡邉修|画像提供:財団法人直島福武美術館財団

    本銭湯内部の様子を少し紹介しておきたい。私が見たのは女湯だった。脱衣所の洗面台には、海の生物の絵。黒いベンチにはビデオモニターが組み込まれ、海女が若い肉体をさらしながら海で泳ぐ映像が流れる。浴室に入ると男・女湯の隔壁上にほぼ等身大の象の像が設置され、長い鼻を垂らしている。中央の浴槽の床には透明な板の下に女性のピンナップや古書の頁。浴槽奥の壁面には、大竹によるペンキ絵ならぬタイル絵がひしめく。描かれているのは魚介や女性の姿である。壁の下部はガラスで区切られ、向こうの空間に熱帯植物が並んでいる。浴室は大から小まで生き物で埋め尽くされている。生命感があふれるこの浴場は、おおらかな「生」の空間だ。
    しかし、はっきりと、「生」だけでなく「性」がそこにあることを意識する瞬間がある。
    湯船に体をひたしながら、洗い場に座るほかの客を見る時である。通常の銭湯では、常連の洗い場の座席が決まっていることがある。利用者の間に、この席はあの人のもの、という暗黙の了解があるのだ。それを逆手にとったのが、この銭湯の座席である。並んだ蛇口の下、石鹸等を置く台のその下-まさに足元に、タイルに描いた文字が隠されている。「恍惚」「情事」「年上」云々。席の利用者は台が邪魔になってその文字を見ることが出来ないが、浴室中央の湯船から見ると、そこに居る人の説明のようで面白い。描かれた文字の眼差しは、女性からすれば異性の眼を意識させられるものだ。

    この女湯の空間は「女性」が所有するものではなく、あくまでも大竹という男性のものである。大竹の選んだ素材が沈む湯船に身をひたすとき、それは彼の生きてきた年月と体をあわせるようでエロティックだが、通常の銭湯や温泉で温水に体をゆだねた際に全てを受け止めてくれる気持ちになる-いわば母の胎内に回帰するような安堵の感覚はない。おそらく、「女湯」における女性のホモソーシャル(同性によってのみ作られる社会や世界)の空気もここでは生まれないだろう。一般的な銭湯では、血の繋がりはなくとも、祖母や母や妹や子供など各年代の「女性」と湯を共有するとき、皆他人であって他人ではない。子供たちに自分の過去を、年上の女に将來を重ねて場を共有する空間なのだ。しかし「I♡湯」では同性を眺めるという視点が揺らぐ。異性の大竹の眼差しで周りを眺めてしまう。つまりここは、他の客と共有する場というより、大竹という作家個人と出会う空間なのだ。
    それと同時に、底にピンナップが貼りめぐらされた浴槽の中では、自分の体が彼のコラージュ作品の中に組み込まれてしまう錯覚に陥る。自分も見られるものであったのかと気づかされると同時に、いつの間にか、自分が銭湯の一部になり、銭湯が自分になっているという不思議なパラドックスが生じているのだ。大竹という他者のものだと思っていた世界はいつの間にか鑑賞者に共有されている。

    一つの新しい共同浴場の像が海に囲まれた暖かな島に生まれている。

最終更新 2011年 11月 11日
 

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