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第1回所沢ビエンナーレ美術展「引込線」
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 9月 28日

元工場や倉庫などを改造したりそのまま利用したりして、展覧会を行うようなところ、いわゆるオルタナティブ・スペースというのは、今日珍しいものではない。そこでは往々にしてまだコマーシャルギャラリーやスポンサーのついていない若手作家のグループ展が行われていたり、美術館や白壁のハコモノギャラリーではできないような内容の、あるいは規模の作品が展開されていたりして、善くも悪くも野心に富んでいる作品を目にすることが多い。また特に海外において、この手の類いが位置する場所は、往々にして地価の安いところ、すなわち生活に適さない倉庫街や治安の悪い地域であって、不穏な空気がその周囲を取り囲んでいる。ところがこの不穏な空気は反転して、ここから何かが生まれ出ていくというような期待感をも醸し出す。

「所沢ビエンナーレ 引込線」の舞台である西武鉄道旧所沢車両工場もオルタナティブ・スペースを彷彿とさせる殺伐とした灰汁の強い佇まいだが、先に述べたようなオルタナティブ・スペースに対するステレオタイプなイメージを同展覧会に求めると、それは期待はずれに終わるかもしれない。

出品作家は、著名な先生方や若手でも定評のある作家陣によって構成されていて、よくよく見れば非常に見ごたえのあるものが多い。例えば戸谷成雄氏の天井高を生かした作品や、自己の作品の文脈と元車両工場という場所性、また所沢という地域性を生かして緊張感のある空間を作り上げていた冨井大裕氏の作品は瞠目すべき作品に見えた。しかし全体的に見るとなんというか、作品が際立ってこない。何故ならば多くの作品は、ただ単にそこに置いてあるだけのように感じられ、場所に対する意識が希薄であるように思えてならないのだ。但しここで留意しなければならないのは、ここには村岡三郎氏などを筆頭に自己のスタイルを確立している著名な作家の出品が多いということだ。彼らにはそうした場所性を意識した作品を作る筋合いはないし、私は作る必要もないと思う。そもそも彼らにとってこうしたオルタナティブ・スペース然とした場所へ出品すること自体が異例なのであって、こうした場所はやはり若手の作家や実験性に富んだ作品の方がふさわしい。

では、何故出品しなければならないのか。それは「所沢ビエンナーレ」のチラシにも書いてある通り、「バブル期以降の美術をめぐる経済の肥大と衰弱という経済依存の波のなかで、多くの美術家や美術館員そして美術批評家が指針を見失っていったこと」、また「一握りの美術作品の極端な商品化、コマーシャル化、娯楽化が進行していったこと」に起因するのだろう。かいつまんでいえば、経済が停滞する中で、財政上ゆとりのなくなった美術館は集客のため観客のニーズに応えようとし、既に広く周知されている、かつ分かりやすい展覧会を行う傾向にある。美術雑誌やコマーシャルな美術市場は絶えず刺激や真新しさを求め、軽佻浮薄な趣き。そこで作家は瞬く間に消費され、賞味期限がとても早い。このような状況では、沈思黙考し地道に制作活動を続ける現代美術作家に対して、スポットライトの当たる場所が非常に限られてしまっているのが現状といえる。それは確かにもったいないし、嘆くべき事態であることに疑いはない。故に「所沢ビエンナーレ 引込線」は、場所がないのならば自らの手で作ってやろう、という気概と危機感に満ち満ちた企画、という訳だ。

それにもかかわらず、この展覧会は冒頭に述べたような不穏さや期待感が渦巻く空間ではなく、どうにもいい塩梅なのだ。平穏な郊外都市である所沢の駅にほど近い会場は、薄暗いながらも漏れ入る柔らかな日差しで満たされている。静かな会場の中に、隣の中学校かなにかから聞こえる学生たちの部活の掛け声がこだまする。緊張感がないといえば、緊張感がないのかもしれない。現に、去年行われたのがプレ展だったとはいえ、前回と同じ出品作品がいくつか見られた。チラシに書かれた悲痛なステートメントに比べると、何か拍子が抜けている。

その中で増山士郎氏の出品作品は、この「所沢ビエンナーレ」を象徴しているもののように思えた。「アーティスト難民」と題された彼のインスタレーションは、彼の所属していたギャラリーがリーマンショックで潰れ、企画されていた展覧会さえも頓挫した増山氏が日本へ帰国し、「出稼ぎ」のためにアルバイトをしながら、この「所沢ビエンナーレ」の敷地内で暮らすというものだ。まったく他人事の気分にはさせてくれない作品なのだが、彼自身このアルバイト探しを「出稼ぎ」と称しているように、本来彼の活動ベースは海外であって日本ではない。その意味でタイトルである「難民」と彼が仕事を探すモチベーションとして挙げる「出稼ぎ」には、大きな齟齬を感じてしまう。というのは「出稼ぎ」と「難民」には、そこにいくためにここにいるのか、そこにいられないからここにいるのか、という大きな差異が横たわる。この差異は、インスタレーション内のモニターから流れるアルバイトの面接の記録音声にも端的に表れている。例えば、夜勤の梱包仕事の採用面接において「特技は?」と面接官は尋ねる。すると彼は「役に立たないかもしれないが、英会話です」と答える。このやり取りを好意的にさえ見れば「作家の卑小な自意識を披歴することで、自己批判に転じさせ、同作品に一定の批評性を担保している」といえるかもしれない。しかし本当に「難民」として「ここ」(日本で梱包作業)にこだわるならば、この返答は本当に的外れの回答だ。無論、この発言から透けて見える彼の「ここ」へのこだわりのなさをあげつらって、彼は本当の意味で「難民」ではないのだから、この作品は欺瞞だと詰るほど無粋ではない。むしろ私が着目するのは、困窮し直接社会に打って出たとき、作家が直面する途方もない社会の冷たさ、すなわち増山氏と面接官とのやり取りの中で面接官が放った「ああ、前職はフリーの、クリエーターさん。。。」という言葉に代表されるようなアーティストに対する無理解さと、それに対する言葉を持ち合わせていない作家の無力さと呑気さだ。

元車両工場のような場所に、すなわち美術館や美術雑誌という権威づけられた媒介物を介すことなく作品が置かれたとき、作品は丸裸にされ、「フリーのクリエーターさん」の作品になってしまう。故にインパクトのない作品は元車両工場に同化してしまうし、逆にインパクトのある作品は、際立ってくる。作品間は密接しており、それらは容易に比較されてしまう。この空間は作家にとって極めて過酷な競争の場だ。にもかかわらず、いい塩梅の空気が漂うのは「フリーのクリエーターさん」というレッテルに「所沢ビエンナーレ」が総体となってノーをつきつけていないことにあるのではないか。同企画のチラシのステートメントは「よくよく見れば、我々が「フリーのクリエーターさん」ではないことが分かりますよ。この通奏低音を感じ取ってください」と言いたげだ。気持は分かるが、面接官(見る人)はそれほど優しくないし、あなたの微細で深遠なエッセンスを吟味するゆとりを持ち合わせてはいない。

社会とのチャンネルが減少していく中で、そしてそのことを自覚しているにもかかわらず、ここで見る人を引き込まなければ、自身だけが引込線の中に引き込まれるという危機感を持つことが今回の「所沢ビエンナーレ 引込線」に足りない要素ではなかったか。要するにここではないどこかへ行くための「出稼ぎ」待合所ではなく、誇り高い「難民」キャンプとなることがこの会場に不穏さや期待感を充満させるひとつの条件ではないだろうか。但し、この会場を支配するいい塩梅の空気も必ずしも悪くないと思うし、百年に一度の不況と言いながら、いつもと同じ日常がなだらかに続いていく日本のありさまを同展覧会が反映しているのも事実だろう。

最終更新 2016年 5月 10日
 

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