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間島秀徳:Kinesis / 水の森
 −小杉放菴とともに−
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 9月 09日

fig. 2 ≪Kinesis No.294 (hydrometeor)≫ 2006年|紙・墨/顔料など|240.0×720.0cm 東京都現代美術館|撮影:飯村昭彦|画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

fig. 1 「間島秀徳 Kinesis / 水の森
−小杉放菴とともに−」(小杉放罨記念日光美術館)展示風景|撮影:飯村昭彦|画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

    おぞましい幽霊画を見てゾッとし、血しぶきが飛び散る無惨絵を見てウッと目を背けることがある。痛覚を刺激するそのような絵画から抱く〈恐怖〉とは、描かれている対象の具体的な形象によるところが大きいが、しかしそのような絵画だけが私たちに恐怖を呼び起こすとはかぎらない。間島秀徳(1960年生まれ)の絵画は、今回の展覧会タイトルにも表れているようにイメージ的には水を彷彿させ、制作上も水が多大な役割を担っているが、そのことは結果的に水の持つ両義的な性格を作品に強く反映させることになった。すなわち、生命を育む守護者としての性格と、生命を奪う破壊者としてのそれである。運動、変化、あるいは生成、死滅を意味するギリシャ語の「Kinesis」をタイトルにした間島の作品は、まさしく両者の鬩ぎあいこそ真骨頂と言えるが、今回の展示では後者の存在感が著しく強いものが散見し、そのことが全体を引き締めていたようだった[fig. 1]。 具体的に作品に言及すれば、≪Kinesis No.294(hydrometeor)≫(紙・墨/顔料など、240.0×720.0cm、2006年、東京都現代美術館)[fig. 2]、≪Kinesis No.359≫(紙・墨/顔料など、220.0×150.0cm、2008年、作家蔵)[fig. 3]、≪Kinesis No.362(hydrometeor)≫(紙・墨/顔料など、190.0×720.0cm、2008年、作家蔵)[fig. 4]、≪Kinesis No.411(hydrometeor)≫(紙・墨/顔料など、175.0×460.0cm、2009年、作家蔵)[fig. 5]がそれにあたる。これらの作品に共通する要素として挙げられるのが、全体的な色の調子としては青が中心になっているものの、横断ないし縦断するようなかたちで紫系の色がうねるようにその画面全体を走っているという点である。それらはあるときは炎のように、またあるときは川縁に垂れる夜半の柳のように見るものによってその形象を様々に変えるが、私にはいずれにしても〈怖れ〉の対象として真に迫り来る。 今回の展覧会は同館が所蔵する日本画家・小杉放罨(1881年〜1964年)の作品を同時に展示しているため厳密な意味での個展ではないが、なんにせよこのように31点というまとまった点数が展示される場合、間島の作品はその一貫した制作手法のためかともすれば調子が似通っているように見えてしまう危険がある。手法について同展カタログに収録されている東海大学松前記念館・篠原聰学芸員の説明が簡潔であるため引用しておこう。

fig. 4 ≪Kinesis No.362(hydrometeor)≫ 2008年|紙・墨/顔料など 190.0×720.0cm 作家蔵|撮影:飯村昭彦 画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

fig. 3 写真中央:≪Kinesis No.359≫2008年 紙・墨/顔料など 220.0×150.0cm 作家蔵|撮影:飯村昭彦 画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

「使用する画材は、墨、岩絵具、顔料、アクリル絵具、大理石の粉末、それに粉々に砕いた溶岩や砂、軽石、岩石、鉱石など。それらを水や膠、特性のメディウムなどで溶いて絵具をつくる。水の流動性や重力の作用を生かした制作スタイルも独特である。パネル貼りの和紙を大量の水で浸し、そこに絵具を垂らし、流しては重ねてゆく。制作に臨む彼の絵筆は身体と同化し、穂先からたっぷりと水を含んだ絵具が矢継ぎ早に落下してゆく。さらに大量の水を画面に撒く。水で覆われた大きなパネルを持ち上げては、傾け、流す、という描き方である。」1

     こうして制作される作品は作家のコントロールを超えたところの偶然性を作品にもたらし、よって一点一点の差異はつぶさに見ずとも厳然とあるのだが、それでも手法が一貫しているため作品のイメージは類似し、その〈似ていること〉が展示そのものを単調にしてしまう場合がある。今年に入り間島は五回個展を開催しており、内二回は見逃してしまったものの三回見た経験からすると、今回も出品されている六角形の≪Kinesis No.316(hydrometeor)≫(紙・墨/顔料など、245.0×1800.0cm[表裏]、2007年、作家蔵)[fig. 6]が展示された新生堂の個展をのぞくと印象が必ずしも充分に残っていない。間島にとってもエポック・メイキングな同作品の力が大きいのだが、ただし、今回の展示は小品から大作まで、それだけに頼らないヴァリエーションに富んだものになっていた。というか、間島の≪Kinesis≫のシリーズは既に400点を超え、そのすべてを知らずして断片的な内容の是非について語るのはいかがなものか、というのが今回の展示を見ての私の感想である。今年の春先、渋谷のギャラリエアンドウの個展に際して、作家に作品が同じように見えてしまう危惧について話したことがあるが、それは単に私が間島の作品を見た経験が乏しいだけで、実際はそんなことはなかったのだ。すべてを見ることが不可能であることは言うまでもないのだが、そのくらいの気概をもっていなければ少なくとも批評は批評足りえない。非礼をお詫びしたい。

fig. 5 ≪Kinesis No.411(hydrometeor)≫2009年|紙・墨/顔料など|175.0×460.0cm|作家蔵|撮影:飯村昭彦|画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

fig. 6 ≪Kinesis No.316(hydrometeor)≫2007年|紙・墨/顔料など|245.0×1800.0cm[表裏]|作家蔵|撮影:飯村昭彦|画像提供:間島秀徳|Copyright © Hidenori MAJIMA

     さて、間島の作品は「Kinesis」という象徴的な言葉から作品が森羅万象を内包しているかのような壮大な言説や、あるいは墨や岩絵具などの日本画材が使用されていることから「日本画」の超克をめぐるそれとして語られることが多いように感じる。開催館であり同時展示の小杉の作品がそもそも、そのような性質を共有していると言えるだろう。小杉の≪白雲幽石図≫(紙本・着色、38.0×148.0cm、1933年頃、小杉放罨記念日光美術館)という大きな石の先端にぽつんと老人が佇む作品は、まるで石が宙に浮かんでおり、老人が仙人を思わせるような壮大さがあるし、そもそも小杉は「放罨」以前に小杉未醒という号で洋画を描いており、それは「日本画」だけではなくそれと「洋画」との問題を美術史的な見地から考えさせるに充分だ。けれども私は今回あえて、間島の先述の作品からとりわけ感じたプライベートな感情である〈怖れ〉の発生を、そう感じたという事実を書き留めておきたいと思う。身の丈を超える解釈を書き連ねるのでも、作品を位置づける歴史的な観点を突き詰めるのでもなく、身の毛がよだつ眼前の絵画について語りたい。その〈怖れ〉とは、〈美しさ〉と同義である。

脚注
※1
篠原聰「創造の小径 間島秀徳—絶え間なく壊される秩序—」、P25、『間島秀徳 Kinesis / 水の森
−小杉放菴とともに−』、小杉放罨記念日光美術館、2009年

参照展覧会

展覧会名: 間島秀徳 Kinesis / 水の森
−小杉放菴とともに−
会期: 2009年7月25日〜9月13日
会場: 小杉放菴記念日光美術館

最終更新 2010年 7月 05日
 

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