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neoneo展 Part1[男子]:ネオネオ・ボーイズは草食系?
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 8月 27日

先頃私は高橋コレクション日比谷で開催されている「「neoneo展 Part1[男子]」ネオネオ・ボーイズは草食系?」について次のように書いた。

歴史的に見ても、美術品の蒐集が政治的な行為であることは言うまでもないが、「ネオテニー・ジャパン」に加え、それに続く「ネオネオ・ボーイズ」という閉口せざるをえないネーミングからは、言葉という強力なツールを用いて時代ないし作家、あるいは作品を一つの概念に定着させてしまおうというきわめて政治的で暴力的な思考が見て取れる。その点で本展は、必ずしも作品だけを見せようとするものではなく、それらのコレクションを歴史的、社会的に位置づけたいという主催者側の強い欲望を見せるものだ。つまらない言葉を宛てがわれた作家は悲劇である。※1

梅津庸一≪フロレアル ≫2004-2007年|油彩、綿布、板
119.3x229.6cm|画像提供:高橋コレクション

田代裕基≪炎天華≫2007 年|水彩、アクリル絵具、金箔、楠
245x300x300cm|画像提供:高橋コレクション

小西紀行≪無題≫2007 年|油彩、カンヴァス|194x130.3cm
画像提供:高橋コレクション

誤解のないようここで強調しておきたいのは、この文章は高橋コレクションそれ自体に向けられたものではない、ということだ。「主催者側の強い欲望を」と書いているように、私がここで批判しているのはこの展覧会の「主催者」にほかならない。「企画者」と言った方が正確なのかもしれずその点はお詫びしなければならないが、とにかくコレクションそのものではない。なんにせよ、プレスリリースに「展覧会企画:高橋龍太郎」と記してあるようにそこには当然高橋も含まれるが、その他にもキュレイターとして名前のあがっている内田真由美、児島やよいもそれに該当すると私は考えている。あるいは、「草食系という自己愛のかたち」という文章を寄せている宮村周子(編集者、来来/LaiRai)も立場として近い位置におり、私はこの文章に現在の高橋コレクションをめぐる状況が端的に表れていると考える。

そこではいかに高橋コレクションが優れているか、そしていかに展覧会が扱っているテーマが面白いか、が盲目的に語られている。「世界が注目するジャパン・アートを集約的に紹介する同展は、じつは1000点以上からなる高橋コレクションのごく一部」という一文の、「世界が注目する」根拠はどこにも記されていないことからもその盲目性は明らかだ。たとえ「ジャパン・アート」の作品が各地のオークションで高値を付け、美術関係者の関心を引こうとも、それを即座に「世界」などと書いてしまうメンタリティに私は同意しない。このような展覧会に寄せられた外部の人間の文章が総じてその展覧会を称揚するものであることは常だが、それにしてもあまりに客観性に欠けた文章で閉口する。加えて、恣意的な造語である「ネオテニー・アーティスト」という呼称に次ぐ若手を「ネオ・ネオテニー世代」と躊躇いなく呼び、まだそこまでは仕方がないにしても、「相当な人数が顔を揃えるネオネオ世代を紹介するにあたって」とここでもそのネーミングを自明のものとしていて呆れる。繰り返すがその根拠はどこにも記されていない。果たして宮村はその「ネオネオ世代」のすべての作家を見知っているのだろうか。そうであれば、それは誰なのだろうか。そうでないならば、なぜ「相当な人数が顔を揃える」などと書けるのか。

キュレイターの二人がそれぞれ具体的に何をしているのかわからないため言及できず、宮村の文章に矛先を向ける形になってしまうが、他にも誰の文章かわからないものの、「今もっとも注目される若い世代の作家を男子と女子に分けて展示する「neoneo展」。
「Part1[男子]」ネオテニー・ジャパン世代の弟たちの作品から見えてくる時代の真実・・・・・・。」という一文があり、これを読むと、よくも簡単に「時代の真実」などという言葉を使えるものだと思う。私はキュレーションの目的を、新しい言葉や概念を作り出し作家・作品の価値を高めることと考えているが、そのためには慎重な言葉選びと説明が必須とされるにも関わらず、ここではそれが放棄されてしまっている。もっとも、美術史的な価値というよりは市場価値に傾くとこのようなことになるのかもしれない。

繰り返すが、私は高橋コレクションそのものを批判しているのでも、そのコレクションに含まれる作家や作品を批判しているのでもない。個人のコレクションを批判する権利は私にはないし、作家や作品を批判するのであれば作品論ないし作家論を書けばいい。私は高橋コレクションを崇め奉るようなきわめて盲目的な言説と、そういった状況についてまったくおかしいと思わない人たちをおかしいと批判しているのであり、その〈おかしさ〉を体現しているのが「「neoneo展 Part1[男子]」ネオネオ・ボーイズは草食系?」だと考えるからこのようなレビューを書いている。冒頭に転載した文章を書いてからしばしば私が言われたのが、それでも展覧会の作家が面白いのだからいいではないか、という言葉だが、私はそのようにはまったく思わない。あるコレクションがどのように語られようとも本来は好きにすればいいと思うのだが、好きにすればいいと思うのはそれが内輪で完結している場合であり、今のようにまるでそれこそが日本の現代美術そのものであるかのような風潮には絶対に異を唱える必要がある。賢明な人は、そうではないと気づいているだろうけれども。

最終更新 2016年 5月 10日
 

編集部ノート    執筆:小金沢智


歴史的に見ても、美術品の蒐集が政治的な行為であることは言うまでもないが、「ネオテニー・ジャパン」に加え、それに続く「ネオネオ・ボーイズ」という閉口せざるをえないネーミングからは、言葉という強力なツールを用いて時代ないし作家、あるいは作品を一つの概念に定着させてしまおうというきわめて政治的で暴力的な思考が見て取れる。その点で本展は、必ずしも作品だけを見せようとするものではなく、それらのコレクションを歴史的、社会的に位置づけたいという主催者側の強い欲望を見せるものだ。つまらない言葉を宛てがわれた作家は悲劇である。


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