| EN |

増本泰斗:Delicate Tongue
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 8月 20日

    部屋に入る瞬間、部屋の左隅にあるテレビモニターに自身の姿がうつし出される。部屋の右隅にカメラが設置されており、その眼は部屋の入口を向いている。それ故、「今」私は私が部屋へと入る姿を確認する。私は大変猫背だが、普段それを気にすることはない。だが、ひとたび写真や映像にうつる私の姿を見ると、その恰好が無様で厭になる。モニターに私の姿がうつるため、改めて自身の姿が客観視され、自然と背筋が伸びる。この時、私が「部屋にいる」という状態を改めて自覚する。

fig. 1 「増本泰斗 展」展示風景|画像提供:gallery Archipelago|Copyright © Yasuto MASUMOTO

fig. 2 「増本泰斗 展」展示風景|画像提供:gallery Archipelago|Copyright © Yasuto MASUMOTO

fig. 3 「増本泰斗 展」展示風景|画像提供:gallery Archipelago|Copyright © Yasuto MASUMOTO

    部屋の正面壁にうつるのは、私が「今」いるこの部屋で「かつて」あったパフォーマンスの様子を収めた映像である。この映像を見る限り、オープニングの日に行われたパフォーマンスは、数人の朗読者たちが同じ文章をそれぞれのタイミングで朗読をするというものだ。始めのうちは朗読者が一人であるため、人が蝟集しざわつき止まぬ部屋を映した映像の中、辛うじて彼の言葉は聞き取れる。辛うじて聞こえるその言葉によって朗読の内容が、どうやら今この部屋の隅に貼られているフランス書院風の小説の一節であることが分かる。だが、徐々に朗読者の数が増えていくにつれて段々と朗読の声は混じり合い、ひとつの大きな雑音と化し、言葉は意味を伝えなくなる。

    映像自体は、会場全体をいくつかの角度で定点観測したものから、時折、作家自身と思しき人間が持つハンディカメラによってうつされたショットへと切り替わる。ハンディカメラは、時に朗読者の顔のアップを映す。うつされていることを自覚する朗読者は、撮られていることを意識してか、恥ずかしそうに笑みを零す。あるいはハンディカメラは、パフォーマンスの様子を真面目そうに観察する者の顔や、女性の足元を執拗に撮影する。このようにカメラは定点観測とハンディカメラのゆっくりとした逍遥、あるいはクローズアップを繰り返し、巨視的視点と微細な視点との間を往還することで、パフォーマンスの全容を描き出していく。

     「今」私はこの部屋にいて、「かつて」この部屋で行われていたパフォーマンスの様子を目の当たりにしている。より厳密に言えば、「今」私はこの部屋の構成要素のひとつでありながら、映像を通して「今」の私という存在が欠損して成立している「かつて」のこの部屋の全容を見ている。もし私が「かつて」この映像に収められたパフォーマンスに居合わせていれば、その時、隣の朗読者の口から零れる言葉の内容を解しただろう。だが、「今」映像から流れてくる声の総体は、ただのノイズの塊と化して私の耳に飛び込んでくる。その意味で、「今」の私にとってフランス書院風の淫靡な小説の内容など意味はない。会場内に貼られたその小説の一節や、カメラに寄られ照れる朗読者の姿を見て、彼の朗読内容が会場内に貼られた小説であることを想像するのが精一杯だ。すなわち「かつて」のこの部屋に「今」いない私は、この朗読の内容が本当にこの紙に書かれたものだと、想像することはできても、確信することができない。朗読者の声は、あくまでも「かつて」収録された雑音として「今」この部屋では響くのだ。

    同様に巨視的視点と微細な視点が繰り返される映像は、確かにこのパフォーマンスの全容を描き出してくれるものの、私の眼を代補するものとして機能しない。冒頭に述べたように、この部屋に入る時飛び込んでくる私自身の姿は、私が「今」この部屋にいること、すなわち映像を見る主体としての私を自覚させる。故に、それはあくまで「今」私を取り巻く「かつて」のパフォーマンスなのではなく、私の目の前に到来している「かつて」のパフォーマンスの全容に過ぎない。このように同じ部屋であるにもかかわらず、「今」私がいる空間と映像がうつす「かつて」の空間とでは埋めようのないほどの差異がある。本来、その差異を埋め、「今」ここの世界から別の世界へと私を誘ってくれるのが、想像力や感情移入などの跳躍力のはずだ。またそれを刺激することこそが芸術の役割だとも言われよう。だが増本の映像では、こう言ってよければ様々な「ノイズ」-殆どノイズに等しい朗読者たちの声やマクロとミクロを繰り返しつつ移動する視点-が、眼の前に展開する「かつて」の世界の一プレーヤーとして私を没入させることを許してくれはしない。私は「今」あくまでもこの世界にいる人間として、「かつて」の世界の全容と対峙しなければならないのだ。

    このように「今」の部屋と「かつて」の部屋との差異は、想像力や感情移入の臨界点を措定し、「今」と「かつて」という個々の世界の特殊性を際立たせる。この点において今回彼が仕立てた空間は、単なるパフォーマンスの記録映像上映会場などではなく、ひとつの作品として成立しているように思える。

最終更新 2010年 7月 05日
 

編集部ノート    執筆:小金沢智


ギャラリー壁面に流れているのは、展覧会初日に行なわれたパフォーマンスの記録映像。それは声に出すのも躊躇われる、セクシャルで破廉恥な内容のテキストの大人数での朗読風景を撮影したものである。ビデオカメラはそのテキストの大人数であったり最終的には一人でもあったりする朗読者の表情の移ろいが撮られ、その状況に顔をしかめたり無視したりする傍観者が撮られ、あまりのいたたまれなさから(?)会場を出る観客が撮られ、撮影者自身も撮られている。そして会場には一つのカメラが備え付けられ、それを見ている私の映像が同時にもうひとつの小さいテレビモニタに映し出される。 傍観者よろしく醒めた目でそのパフォーマンスを見ている私もまた見られているという逆転は、決して目新しいものではない。テキストの内容のあまりの馬鹿馬鹿しさが、見る/見られるという対立自体を宙づりにするという点に本展の痛快さがある。声がこもり、映像ではほとんどの朗読内容を聞き分けることができない。だが心配することはない。テキストは壁面に貼り出されている。あなたは果たして、どんな顔をしてそれを読むのだろうか。


関連情報


| EN |