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朝海陽子:22932
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 7月 10日

fig. 1 「22932」より(2009年)|画像提供: 無人島プロダクション|Copyright © Yoko ASAKAI

fig. 2 「22932」より(2009年)|画像提供: 無人島プロダクション|Copyright © Yoko ASAKAI

    「22932」は、被写体となった一軒家の旧番地だという。故に、このシリーズにおける写真群は、全てその一軒家の敷地内における情景だ。この写真群には、この一軒家の全容を窺い知ることができるような写真は、一枚もない。個々の写真は、庭、台所、居間など、屋敷の部分的な情景を写している。時折、写真にはそこに居住していると思しき人物たちが写り込んでいるけれども、そこでの人々の行為は光景と同様に断片的で極めて謎めいている。例えば、[fig. 1]において、一人の男性が暗闇の中で箱と鍵を手にしている。人物の動作は、物語の可能性を示唆するような所作にもかかわらず、その写真のみでは、彼がその箱を発掘したところなのか、それともその箱を人知れず埋めているところなのかを判別することはできない。

    他の写真群と注意深く見比べてみると、それぞれの写真には、それぞれ個々にある小さなつながりが存在していることに気付く。例えば[fig. 2]では、ある一室の中、椅子の上に箱が置かれている。箱の蓋は開かれており、中には真珠のネックレスが入っている。その箱は、先の写真において、男性が持っている箱と同一のもののように思われる。それでも、先の写真とこの写真とが相補的に情報を提供し、この箱の謎が分析されていくことはない。むしろ、この椅子に置かれている箱が、この男性によって掘り出されたものなのか、それとも後に男性によって埋められたのか、そもそも先の写真において男性が持っていた箱は本当にこれなのか、中身は真珠のネックレスだったのか、などと思いが巡り、むしろ謎は深まるばかりになる。このような事例がこの写真群には無数にちりばめられているので、写真を読み込んでいくうちに段々と、写真群とのつながりやこの家に関係する人間たち、またその関係性を類推できるようになるけれど、その全容は一向に明確にはつかめない。そのような不如意さは、靄のなかを突き進むかのような茫漠さを掻き立てるのだけれど、それは不安感やフラストレーションを喚起させることはない。むしろ一見、何の関連もないように感じられる個々の写真との間に何らかの関係性や連関点を見出していくことは、宝さがしのように快感ですらある。

    写真における瑣末的な要素に心惹かれていくという現象は否応なく、ロラン・バルトの言うところの「プンクトゥム」を想起せずにはいられない。バルトによれば「プンクトゥム」とは、写真の中での「細部」あるいは、「小さな裂け目」であって、それは、写真が持つ一般的で共通的な意味を打ち破り、個人的な興味を掻き立てるものである 。※1また、それは写真家が意図的に作り上げることのできる代物ではない、とも彼は言う。一方で、朝海の写真は、この「プンクトゥム」めいたものを意図的に写真にちりばめ、観者の眼を惹きつける。意図的であるという点を考慮に入れれば、それは厳密には「プンクトゥム」と定義することはできないだろう。しかし、朝海の写真にちりばめられた小さな事象群は、この「プンクトゥム」同様、明確な意味を誇示しない。また、どの小さな事象に注目するのか、またその小さな事象群との間にどのような関係性を見出すかは、観者の判断に大きく委ねられている。すなわち、写真というテクストを読み、物語を紡いでいくという楽しみは、あくまで観者の判断に大きく依拠している。この意味で朝海の写真の中に散りばめられた諸要素は、仮構されたプンクトゥムとも言えないだろうか。

    このシリーズには、モノクロで被写体を写したものと、カラーで写したものがある。どちらかと言えば、対象を遠目に、部屋全体を写す際はモノクロで撮影し、一方で焦点の近い被写体においては、カラー写真を使う傾向があるように感じられる。こうした使い分けは、例えば、全体的には茫洋としているが、断片的なもの、瞬間的なものになればなるほど鮮明に覚えているといった、我々の記憶のメカニズムと重なりあうのではないだろうか。そもそも展覧会名ともなった番地は、ある一軒家を指し示す「過去」の番地である。つまりそれは、これらの写真に収められた時間的瞬間や空間的断片が、最早過ぎ去ってしまったものであることを明示していると言える。しかし、写真によって喚起され、我々の脳裡において「今」再構成された物語は、「過去」のものでありながら、生き生きと現前に迫ってくる。あたかもそれは、過去の断片に触れ、不意に色鮮やかに蘇る我々の記憶であるかのように。つまり、写真を見比べ、行きつつ戻りつつ、それを何度も繰り返しながら、不活性であったシナプスが甦り、過去が現在に蘇る。そのようにして復元された過去は、我々にとって未知の物語である故、まるで親しみのない物語のはずだ。それなのに何故だろう。無性に懐かしいのだ。

脚注
※1
ロラン・バルト『明るい部屋』(花輪光訳)みすず書房(1985年)39頁

参照展覧会

展覧会名: 朝海陽子:22932
会期: 2009年3月27日~2009年5月2日
会場: 無人島プロダクション

最終更新 2015年 10月 24日
 

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