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東信:AMPG vol.25 第四期 5月8日〜5月24日
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 6月 29日

fig. 1 「AMPG vol.25」第四期(三菱地所アルティアム)≪Plants of remembrance_0-21 Fukuma≫映像作品展示風景|画像提供:AMKK|Copyright © Makoto AZUMA

fig. 2 「AMPG vol.25」第四期展示風景(三菱地所アルティアム)≪Plants of remembrance_0-21 Fukuma≫インスタレーション展示風景|画像提供:AMKK|Copyright © Makoto AZUMA

fig. 3 「AMPG vol.25」第四期展示風景(三菱地所アルティアム)≪Plants of remembrance_0-21 Fukuma≫インスタレーション展示風景|画像提供:AMKK|Copyright © Makoto AZUMA

    東信はノスタルジーを極度に嫌う。2009年3月、二年間運営したAMPGが終了したときも「何かの始まりでもなければ何かの終わりでもない」と言ったように、※1 東が見つめているのは〈今〉ないし〈これから〉であり、それこそが花というともすればセンチメンタルに見える素材を用いている東の作品に揺るぎない強度を与えている。個展「東信 AMPG vol.25」(三菱地所アルティアム、2009年3月18日〜5月24日)も第一期から第三期まで、展示されたのは既発表作品だが、異なる植物を使っているという点でいずれも新作と見なして差し支えない。とりわけ第二期の≪Botanical Sculpture #1 Assemblage≫≪Botanical Sculpture #2 holding≫は、どちらにも白百合を用いたという点で画期的なものである。それゆえ、東が第四期(5月8日〜5月24日)に新作として発表した≪Plants of remembrance_0-21 Fukuma≫は、私にとって思いもよらないものだった。

    会場にはまず、東が故郷である福岡県福間町を訪ね歩く映像が流れている[fig. 1]。通っていた小中学校を訪れ、ラーメン屋で食事をし、福間海岸で海に向かって叫ぶ。音声はないものの、そういったロードムービー風の構成からは東の日常の姿を見ることができ、その原風景を伺い知ることができるだろう。だが、東が頑なに拒んできた過去を懐かしむという態度が、そこからはどうしても見え隠れする。これはノスタルジーではないのか?

    そう、私が半ば疑問を感じながら映像を見ていたときのことである。ゆるやかな雰囲気の場面から、緊張感のある、鬱蒼とした林を進む場面へと画面が転換する。東はそこで倒れている松の木を発見し、その重量に苦労しながらも車に運ぶ。同様に、巨大な竹の子を切り倒す場面も映し出される。のちに新作に用いられる植物である。そうして会場には東がドローイングをほどこし、黒と白のペンキをまき散らした床の上に、松と竹の子を使ったインスタレーションが作り出された[fig. 2][fig. 3]。最初は立っていた竹の子は、次第に水分を失い、乾燥して倒れていく。何度か訪れた人はその変化を目撃したはずである。

    私がその作品を見たのは展覧会最終日、東と椎木俊介によるファイナル・ライブが行われたときのことだ。二人は椅子らしきものに座り込み、映像に対面するかたちで演奏を行った。ドラムがあった初日のオープニングとは異なりギターだけが鳴り響く、比較的淡々としたライブである。室内は暗く、だから私は二人が座っているものが松だと、作品だと最初気がつかなかった。一見映像だけが映し出されている空間であり、ライブのためにインスタレーションを撤去したのかと思ったほどである。しかしそのことに気づいた瞬間、映像に映し出された過去と今とが急速に繋がり、眼前の植物の存在が強烈に浮かび上がった。

    もはや先の疑問が氷解していることは明らかだろう。東は故郷である福間の植物を使うことで、ノスタルジーを表出させようとしたのではない。むしろ逆である。風雨に晒され、傷つきながらもゴツゴツとした木肌を見せる松と、そう呼ぶにはあまりに成長した、竹の一歩手前とでも言うべき竹の子。それらはそれぞれに、固有の時間(過去)を有している。今とは過去があるからこそ成立し、だが重要なのはそれを懐かしむのではなく、時に暴力的な身振りであろうともそこから現在性を掘り起こそうと試みる態度にほかならない。松と竹の子という組み合わせは、ノスタルジーなど微塵も感じさせず、そのもの自体の持つ凄みを大幅に増幅させていた。

    会場が福岡であったため、来場者の中には壁面に映る一つ一つの風景を知る人もいただろう。けれどもそのことにより、私も当初そうであったように、作品をノスタルジーの産物として見たとしたら残念である。過去の記憶や体験を慈しみながらも、それを突き放すという態度。最後にあらためて繰り返そう。それこそが東の作品に揺るぎない強度を与えている。

脚注
※1
拙著「祈りとしての花|東信の立脚地」(カロンズネット、インタービュー記事、2009年3月)
最終更新 2015年 10月 24日
 

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