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宮永愛子:はるかの眠る舟
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 6月 08日

≪はるかの眠る舟≫2009年|ナフタリン、長持、積み木、ミクストメディア|写真:宮島径
Courtecy the artist and Mizuma Art Gallery
Copyright © Aiko MIYANAGA

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≪はるかの眠る舟≫2009 年|ナフタリン、長持、積み木、ミクストメディア|写真:宮島径
Courtecy the artist and Mizuma Art Gallery
Copyright © Aiko MIYANAGA

     資生堂ギャラリーでの「第3回資生堂アートエッグ」宮永愛子展(2009年1月9日〜2月1日)、国立新美術館での「アーティスト・ファイル2009」(2009年3月4日〜5月6日)参加と、今年に入り作品を見る機会が多い宮永愛子。ミヅマアートギャラリーでは初となる個展、「はるかの眠る舟」(2009年4月22日〜5月23日)を見た。

     照明の落とされた展示室に展示されているのは、さながら朽ち廃れた屋敷の秘密の小部屋に人知れず隠された宝箱のようだが、その長持の中に入っているものはまさしく子供にとって宝物のようなものたちである。長持の天に入っている裂け目やわずかに開いた蓋の隙間から見えるもの、それらはすなわち、宮永愛子の作品を大きく特徴づけているナフタリンで作られたウサギや積み木状の立方体、木箱であり、そのいくぶん大げさな外見とは対照的に、暗闇の中で煌めくのはあまりに小さく、繊細なものたちにほかならない。わたしはそれらをわずかな隙間から覗き込む。触れることは禁じられ、尊きものとして存在している。
     そう感じていたわたしにとって、長持の蓋が開けてもよいものだと知ったときの驚きは大きい。入口のドアには「そっと近づいて開けてみてください」と小さく書いてあり、わたしはそれには気づかず後にキャプションで知った。今回の作品は、蓋が開けられ作品が外気に触れることでナフタリンによる結晶が崩壊し、時間をかけて再生する、そのプロセスが大きな意味を持っていたのだ。わたしの理解はそこまで到達せず、その前段階で終わってしまっていたのである。

     ただ、その許可は誰にも明確に示されているものだったのかと疑問も残る。思うにこの注意書きは、作品を見る前に知らされなければ意味がない。なぜならそれを知らないかぎり、鑑賞者にとって作品は触れられぬものであり、したがって作品の核となる過程がすっぽりと抜け落ちるからである。蓋を開けるという行為が作品を構成する重要なファクターであるならば、作品横に小さくても看板でも置くべきではなかったか。

     告白しよう。わたしは最初それに気づかず、作品に、全体を見通せないがゆえの鑑賞者の想像力の喚起を読み取ってしまった。隙間からしか見られぬ作品は、それゆえ鑑賞者の〈見たい〉という欲望を呼び起こし、たとえすべてを見通せなくともむしろそれゆえに強い印象を残す。したがって蓋を開けるという行為は、隙間からではきわめて狭い範囲しか見ることのかなわなかった全体が確認でき、木箱のなかにもナフタリンによる椅子があることを知るだけに過ぎない。俗に言うネタバレである。大きな誤読であり、ナフタリンの崩壊と再生に想像が及んでいないという点で、宮永にとっては不本意に違いない見方である。それでは、そもそもわたしたちは、どこまで作家のコンセプトを理解した上で作品と向き合うべきなのか?

     ここで、誤読もまた一つの読み方であると開き直りをしてみたい。黙して語らない作品は、多くのノイズを発生させる。要は作家やギャラリーがどこまでそれを取り除くことができるのか、取り除こうとするのか、であろう。わたしはその誤読にこそ、視覚メディアとしての美術の面白さを見る。意図から外れていたとしても、今回の経験はわたしの記憶に残るだろう。

最終更新 2010年 7月 05日
 

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