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松村有輝:泥の中の金
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 5月 14日

fig. 1 ≪ボキ≫2008年
画像提供:Take Ninagawa
Copyright © Yuuki MATSUMURA

fig. 2 ≪untitled≫2009年
画像提供:Take Ninagawa
Copyright © Yuuki MATSUMURA

fig. 3 ≪Flesh≫2009年
画像提供:Take Ninagawa
Copyright © Yuuki MATSUMURA

    ジャッキー・チェンが去った後には何が残るのだろう。

    言わずと知れたアクション映画のスターである彼が主演する映画は、さまざまな敵と戦い悪を倒すというアクション映画である。映画の中でジャッキーは自身の身体を、時に身の回りにあるモノを使いながら、格闘を演じるのだ。そして、悪者との格闘が終わり、ジャッキーが去った後には、壊された建物、家具、什器、ガラスや食器の破片などさまざまなモノが散乱することになる。

    『ポリス・ストーリー/香港国際警察(原題:警察故事)』(1985)を見てみよう。ラストシーンの舞台としてショッピングモールが格闘の戦場となるのだが、ここではさまざまな売り場のモノやディスプレイが格闘の流れの中で次々と破壊されていく。ガラスケースは悪者が投げ飛ばされて割られ、家具も格闘の小道具として使われる。最後にはジャッキー自身が吹き抜けの空間にあるシャンデリアのポールを下降し、電球や電飾までも破壊される。

    前置きが長くなったが、松村有輝の≪ボキ≫(2008)[fig. 1]という作品を見たとき、これはジャッキー・チェン映画の格闘の後に残された「ボキ」っと割れた木材ではなかったか、と飛躍した考えを抱いた。もちろん「ボキ」という作品はジャッキー・チェン映画で壊されたセットの端材などではないし、彼の映画にインスパイアされたものでもない。これは、松村が偶然、アトリエで二つに折れた木材を見かけ、その再現を試みた作品だというからだ。

    他の作品に黄・白・赤のアルミニウム板が不規則に、しかし暴力的な痕跡を残して3点同じ形に加工されて並列する≪untitled≫(2009)[fig. 2]もまた事故にあった車の破片を再現したものである。これらは自然に(あるいは何者かによって)加えられた「暴力」であった。偶然によって折られたものをそのまま展示するのではなく、それを「再現」するということ。そこに私たちは傷つけられた物質の脆弱さではなく強さを感じ取る。それは、そこに「再現」への意志を見るからだろう。

    破壊とは人為的及び自然に加えられた暴力だとすれば、破壊には痕跡しか残らない。その時、そこに加えられた力のバイアスを観察し、再現するという行為は、ジャッキー・チェン映画で「信念」に突き動かされ「暴力(アクション)」を行う主人公のようではないか。そう、松村もまた信念としての「暴力」をモノに加えている。

    もちろん松村の行う「アクション」は、ジャッキーに比べればささやかなものである。ポルノ雑誌のページを何百枚もしわくちゃにして積み上げたりするぐらいだ(「Flesh」(2009)[fig. 3])。大量に積み上げられたポルノ雑誌の集積からは、欲望を喚起するイメージとしての身体は切り離され、「紙」そのものとしての質量を露わにし、暴力が加えられた形跡を集積として提示する。

    破壊の痕跡、傷跡、欠損、消失。失ったことでモノの存在に気づことがある。あるいは「傷」を与えられたことで物質そのものの性質に気づくことがある。木材、アルミニウム、紙などへ傷つけられた際に生じた亀裂、折り目、屈折に、物質がもつ繊維や光沢、色調が露わにされ、その襞から物質に内包する生命を感じるように。その時、それは弱さではなく強さだった。その破壊の「再現」には、モノが加工される瞬間へと近づこうとする信念とエネルギーがある。ギャラリーに佇んだ時の殺気は、ジャッキー・チェンが去った後に残された空気と同じに違いない。

最終更新 2010年 7月 05日
 

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