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内海聖史:十方視野
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 3月 06日

内海聖史「十方視野」展、会場風景 画像提供:レントゲンヴェルケ|© Satoshi UCHIUMI

    「十方視野」の「十方」とは天地と八方向を意味するという。これは内海聖史の絵画空間をよく表している言葉なのではないだろうか。ギャラリー空間に合わせた圧倒的な大画面作品が印象的だったが、近年、さらなる空間の拡張へとゆるやかに展示空間を変えてきた。それは、5cm×5cmの極小作品をグリッド状に見せる2006年の個展<三千世界>(ヴァイスフェルト-レントゲンヴェルケ)、2008年のグループ展<屋上庭園>(東京都現代美術館)などで結実した成果を見せてくれた。

    まるで、チューニングをするようにサイズをマクロからミクロへと自在にブレさせながら、少しずつ適音へと音を合わせていくような繊細なスケールチューニングとも言えそうなフォーマット手法は今展においても成果を上げている。
    展示はギャラリーを入口から入り、階段を上り、2階へと移動するにつれ、徐々に音量が上がるように、作品世界が形をとりはじめる。昨年、静岡県立美術館で行われた<風景ルルル>展での展示では、ガラスケース内での水平軸に広がる展示だったが、今展では1階から階段、踊り場、2階へと至る垂直空間へと色彩の気流が満ちる「十方視野」空間が現れた。
    ギャラリー内ではさまざまなサイズの異なる作品が壁面全体を使って展示されているため、その全体を見ることはできない。画面には色彩、タッチ、大小の異なるドット状の丸が描かれているが、ある作品に眼を留めると、隣の作品と一つ斜めの作品も視野に入り、視点に入る空間ごとに色彩同士が響きあう。さらに視点をずらすとまた別の作品が視野に入り、目線の空間に見える作品は入れ替わり立ち代り別の作品となる。鑑賞者の目の動き、身体の動き、立ち位置によって、視野に入る作品は変わり、印象も異なる。しかし、それだけたくさんの作品が並びながら、展示は騒がしくはない。作品同士の余白が文章における改行のようにリズムを刻んでいるためだ。自身のまばたきひとつから眼に飛び込んでくる絵画のフェイドイン/アウトに、大量の作品空間は色彩の空間へと変転する。

画像提供:レントゲンヴェルケ|© Satoshi UCHIUMI

    これら、異なるフォーマットの混在は、最初は違和感として感じられるかもしれない。だが、20×17cmの作品も117×104cmの作品も空間に占める面積が重要なのではない。サイズの大小ではなく、それら異なるサイズの作品が対等に場所を得ていることが重要なのだ。小さな作品にはその空間でしかできないことがあり、大きな作品にはそのフォーマットでしかできないことがある。9時間と3分の映画に優劣はない。800頁と2頁の小説に優劣はない。どちらも費やしている時間や労力に差はない。物理的に大きい、長い、厚いからといって、それは絶対的な評価にはならない(もちろん内海の作品において、スケール、数量が重要なのは確かだが)。
    だが、しだいにその一見すると不均衡なバランスが「十方視野」にとって不可欠な要素だと気づかせられるだろう。鑑賞者の鑑賞空間・場所・視点を考慮せざるを得ない映像と違い、「絵画」は空間そのものを変え、視点を選ばない。壁や建築、空間そのものを変える力が絵画にはあるからだ。異なる色彩、サイズはそれぞれが反響しあい、新たな色彩と空間とリズムを作り出す。その色彩の中で私たちは気づくのだ。私たちもまた「十方視野」の一部となっていることに。

最終更新 2010年 8月 30日
 

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