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苅谷昌江:Twins in the labyrinth
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2010年 6月 17日

人のいない会議室や映画館を描いた「Space Oddity」シリーズや人間の顔の部分が狼などの動物の顔に置き換えられた「Hide Face」シリーズなどによって幻想的な絵画空間を創出してきた苅谷昌江の東京初個展が東京・馬喰町のギャラリー・テラ・トーキョーで開催された。今展は「Twins in the labyrinth」と題され、会議室や寝室、水族館などにライオンや鳥、カワウソなどの動物たちが双子として描かれた新作6点が展示されている。それらの作品はこれまで描かれてきた「Space Oddity」と「Hide Face」シリーズを統合したような展開だと言えるかもしれない。

とはいえ、今展の絵画で描き出される空間と動物たちの存在は違和感がある。多くの都市の事例を知っているわけではないが、日本においては公共空間に動物たちを見かけることはないからだ。都市においては、動物は住宅でペットとして飼われるか、動物園の檻の中にいることだろう。オフィスにライオンがいたり、家のリビングに熊がいたりすることはない。犬や猫などの愛玩動物と違って、野生動物が都市に生息するには生きにくいだろう。その在りえないシチュエーションに佇む双子の動物たちは、アイマスクか仮面のようなものを身に付け、場違いな空間のなかで居心地の悪さを感じているようにさえ見える。あたかも、迷宮のなかでさ迷うように。

《inner queen》|2010年|透明水彩、紙|122x80cm
画像提供:ギャラリー・テラ・トーキョー|Copyright © Masae KARIYA

ところで、「Twins in the labyrinth」と題する展覧会で描かれる動物たちは本当に「双子」なのだろうか※1。多くの胎生動物では一度に複数の胎児を産んでも、それを双子とは言わないのが一般的だからだ。例えば、犬や猫がたくさんの子どもを産んでも、私たちは子犬や子猫を双子や三つ子、五つ子とは言わず、兄弟(姉妹)と認識することが多い。つまり、私たちは動物の子どもを双子として見る認識は薄く、敢えて「双子」と捉えるのは特殊なように思える。しかし、苅谷の絵画に描かれるペアの動物たちは、場違いな空間に寄り添うように描かれることで、「双子」であることの特殊さを引き受けようとしているようだ。そう、本展で苅谷が描き出す動物たちは迷宮という場と双子という出生の特殊性を生きている。

双子の特殊性、神秘性についてよく言われることがある。幼児期の双子は言語の発達が遅れることがあるのだという。双子間でのみ通じる「秘密の言語」が原因だと言われているが、仮にそのような双子間の言語コミュニケーションが成立しているのだとすれば、双子とはたった2人という複数で通じる言語を成立せしめる関係性や思考を有することに他ならない。すると、今展の苅谷の絵画で見ることができるのは、そんな「秘密の言語」なのかもしれない。親密でありながら、決定的に他者であること。外見上の似姿に対し、彼(彼女)の思考と感情が異なること。双子間の感情や行動に共通性や神秘的な感性を求める人々は一卵性双生児の外見と感情に一致点を期待する。だが、双子とは「似ている」容姿に対して、統一できない個別性がある。言うまでもなく、双子は2人で1人なのではなく、それぞれが一個人であり他者である。これは、美術作品へ期待されるものに通じるかも知れない。

絵画における美的判断とは現実と「似ている」ことを求められ、「似ている」ことが良しとされる傾向があると思われる。しかし、外見が似ていながら、それぞれが異なる性格や感情を有する双子と同じように、絵画と現実の関係も異なる内面や空間を有している。現実の風景とそれを参照した風景画に差異があるように、同じようで似ていない。どれほど何かに似ていようと、現実と絵画空間では異なるからだ。

苅谷が描き出す作品もまた、視覚的に似ている動物の双子を場違いな公共空間に描き出すことで、眼に見えないもうひとつの迷宮(空間)を描き出そうとしているのではないだろうか。私たちは時が止まったような迷宮に描き出される双子の動物を通して、彼らが交わす「秘密の言語」を聞き取る。その時、鑑賞者の内部に作りだされるものもまた双子のように似ていながら、異なる「双子」の絵画として生成されるだろう。


脚註

なお、本稿では「双子」を一卵性双生児と想定する。
最終更新 2015年 11月 02日
 

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