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マイ・フェイバリット--とある美術の検索目録/所蔵作品から
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2010年 4月 29日

    絵画、水彩、版画、彫刻、写真、工芸など。美術館に収蔵される作品は、このようなカテゴリーに分類される。何故それらは分類されるのか。それは数多の作 品群をある一定の小さなまとまりに分け、管理をしやすくするためだろう。しかしなにより分類という分節化は、あるものをどのように理解するか、つまりある 作品を別の作品から切り分けて、そしてひと括りにして何と定義づけるか、を意味する。たとえば仮に斎藤義重のレリーフ作品を、「彫刻」ではなく「絵画」に 分類するとしよう。このとき、この分類が意味することは、彼の作品を絵画コーナーに展示するとか、絵画用の収蔵庫に保管するということだけではない。むし ろそれは、斎藤のレリーフ作品を漠然と「芸術作品」としてではなく、「芸術作品」のなかの「絵画」と理解し、「絵画」の枠内において考えることに他ならな い。
    それでは、予め用意した分類表にどうしても当てはまらない何かが現れた時、あなたはどうするだろうか。それがある一定の量を形成するような らば、そのために新しい分類を用意するかもしれない。しかしながらその何かが少量ずつ、しかも多様性に富んでいたとしたら。おそらくあなたは十把一絡げに それらを「その他」とするに違いない。

fig. 1 「マイ・フェイバリット--とある美術の検索目録/所蔵作品から」展 展示風景|画像提供:京都国立近代美術館

fig. 2 マルセル・デュシャン《ヴァリーズ(トランクの中の箱)》|1936-41年|ミニアチュールのレプリカ・写真・カラー複製・厚紙ケース|38.5x35.0x7.0cm|画像提供:京都国立近代美術館

fig. 3 「マイ・フェイバリット--とある美術の検索目録/所蔵作品から」展 展示風景|画像提供:京都国立近代美術館

fig. 4 クシシュトフ・ヴォディチコ《もし不審なものを見かけたら》|2005年|ヴィデオ・インスタレーション・四面投影|画像提供:京都国立近代美術館

fig. 5 クシシュトフ・ヴォディチコ《もし不審なものを見かけたら》展示風景|画像提供:京都国立近代美術館

    京都国立近代美術館で開催された「マイ・フェイバリット-とある美術の検索目録/所蔵作品から」は、そんな「その他」に分類されている作品群を中心に編成 された展覧会だ。だが「その他」に分類された作品によって構成されている展覧会だからといって、珍妙で奇天烈な作品のオンパレードというわけではない。そ れどころかデュシャンの《泉》(1917/1964年、レディメイド、シュヴァルツ版、ed.6/8)、シュルレアリスムの版画、フルクサスの資料 [fig. 1]、あるいは写真作品、ヴィデオ作品などが居並ぶ同展は、一貫して極めて正統な近現代美術のコレクション展にしか見えない。それでは、一体何が「その 他」なのだろうか。
    京都国立近代美術館が初めて「その他」に分類した収蔵作品が、マルセル・デュシャンの《ヴァリーズ(トランクの中の 箱)》(1936-41、ミニアチュールのレプリカ、写真、カラー複製、厚紙ケース、38.5x35.0x7.0cm)[fig. 2]であったことは出来すぎとも言えるほど象徴的だ。同展は、《ヴァリーズ》に加えてデュシャンの《泉》や《折れた腕の前に》(1964年、シャベル (鉄・木)、132.0cm)などを展示している[fig. 3]。後者の両作品は、分類上は「彫刻」だけれども、彫ったり刻んだりして作られていない。前者は単なる便器で後者は単なるスコップでしかない、いわゆる レディメイド(既製品)だ。それらレディメイドに、デュシャンは《泉》や《折れた腕の前に》といった名前を付けることで、それらに全く別の意味を与えてい る。換言すれば、既製品から既成の意味を剥ぎ取り、何か分からないもの、いわば「その他」なるものへと変換させていると言える。
    ビル・ブラント やエドワード・ウェストンの写真は、身体を撮影しながらも幾何学的な構築性を喚起させる構図から、被写体である身体やものをオブジェ化させる。赤瀬川原平 の千円札の模写と、それに端を発し裁判沙汰にまで至った一連の顛末は、社会に対して「その他」であり続けようとする美術の不穏な強度を今なお、鮮やかに感 じさせてくれる。このようにデュシャンをその始まりとする現代美術の潮流は、既存の芸術概念の「その他」であること、既存のものを「その他」へと異化させ ることが作品を成立させるひとつの要素であったのだ。
    更に言えば技術的に「その他」であるものが多い、というのも戦後美術のひとつの特徴かもし れない。たとえば、ナム・ジュン・パイクのヴィデオアートやウィリアム・ケントリッジのアニメーションなどの、いわゆる「映像作品」は、絵画や彫刻などと いった既存の分類には収まらない。その上、「映像作品」は、ヴィデオやDVD、ブラウン管やプロジェクションなど多種多様な展示方法があり、「絵画」のよ うに明確な媒体形式が存在しない。そのためそれらすべてを「映像作品」としてひと括りにしていいものか、簡単には答えを出せない。故にそれらは「その他」 に分類されるのだろう。
    LEDを用いた宮島達男の作品《Monism/Dualism》(1989年、発光ダイオード)や高嶺格の写真と映像を 組み合わせた作品《Baby Insa-dong》(2003年、ミクストメディア)など「インスタレーション」と形容される作品形式は、「映像作品」や彫刻などと並行しながら、実に多様な展開と志向性を見せている。

    さて、このような「その他」なるものの興隆は、ある種の混乱をもたらすこともある。冒頭に述べたように分類は、物事を整理し秩序づけるために行われるもの であり、「その他」があまりに多様で多くなれば、また新たな分類を作成、編成し、整理する必要性が生じる。同展に見られるような現代美術における「その 他」の百花繚乱たる状況は、近現代美術を分類しきれない学芸員の無力さを表しているのだろうか。もちろん、そうではないだろう。展覧会カタログにおいて、 河本信治氏が述べている通り、それは彼らが「曖昧さの中に含まれる可能性を惜しみ愛した」※1 ために違いない。「その他」は「何か」として定義づけ、意味づけることによって、整理される。しかし、彼らはまさにそのことによって毀れ落ちてしまう作品 が持つある種の余剰とも言うべき諸相を後世へと受け継ぐために、それらを「その他」のままに積極的に留めておいたのだ。
    人に何かを伝えるときは 物事をシンプルにした方がよい。それはコミュニケーションを円滑に進めるための鉄則だ。シンプルであればあるほど、多くの人に伝わり共感を得ることができ ると考えられる。美術館が展覧会を通じて、人々に美術を享受する喜びを提供する場所である以上、そのような定義づけや意味づけ、そしてシンプル化が不可欠 であることは言うまでもない。しかしながら、果たして美術とは何だろうか。人間ドラマだろうか。心のエステだろうか。正解がない分、どのような解釈も可能 な「自由」なものだろうか。美術とは、いや人間はもっと複雑で錯綜していて、よくわからないもの(なのに、厳然としてそこにあるもの)ではなかったか。京 都国立近代美術館における「その他」という分類の存在は、定義付けられることで毀れ落ちる作品の本質を信じたからでもなく、あるいは80年代の逃走論的な パラダイムを反映したものでもおそらくない。それはきっと現場の人々が、生々しく感じていた忸怩たる思い、美術について多くの人に知ってもらいたいと願 い、そのために行うシンプル化という作業によって、皮肉にも美術鑑賞のみずみずしい衝動のようなものが伝えられていないのではないか、という歯がゆさを反 映しているのではないだろうか。

    出品作のひとつであるクシシュトフ・ヴォディチコの《もし不審なものを見かけたら》(2005年、ヴィデオ・インスタレーション、四面投影) [fig. 4,5]というヴィデオ・インスタレーションは、すりガラス越しの人々の姿を捉えた映像作品である。すりガラス越しの彼らは談笑をしていたり、座り込んで いたり、掃除をしていたりするが、私たちは彼らのシルエットしか捉えることができないため、彼らが実際にどんな人々なのか類推する他はない。つまり私たち はすりガラス越しにいるかのように揺らめく映像の彼らを、「何もの」であるか明確に定義づけることはできず、常に「不審なもの」あるいは「その他」なるも のとして知覚することになる。ヴォディチコの作品は、そんな「その他」なるものとの出会いに対する私たちの態度を問う。
    たまたま私が訪れた日は美術館の無料観覧日で、多くの来場者で賑わっていた。同展は誰もが出品作品を撮影することができるため、多くの人がこの作品に対して物珍しそうにデジカメや携帯のカメラを向けていた。どうも現代人は「その他」に出会った時、写真を撮るらしい。

    さて、あなたは見知らぬ何か、何とも形容しがたい何かに出会った時、どうしますか。


参照展覧会

展覧会名: マイ・フェイバリット--とある美術の検索目録/所蔵作品から
会期: 2010年3月24日~2010年5月5日
会場: 京都国立近代美術館

最終更新 2010年 7月 04日
 

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