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成層圏Vol.5:宮永亮『風景の再起動』
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2011年 9月 19日

宮永亮《arc》2011, Multi-channel Video Installation | Copyright© Akira MIYANAGA | 画像提供:gallery αM

あらかじめ失われた時間について
-高橋瑞木
誠実な映像制作者は、時間によって拘束される。

ビデオカメラで動画を撮影し、その素材を編集してゆく作業とは、撮影者が生きている時間をそのままマシンに吸収させてゆくことに他ならない。だから、映像作品とは撮影者が自ら進んで搾取された時間を回復しようという試みの結果である、と仮定してみよう。宮永は異なる場所、時間で撮影された個別の動画素材の形態上、あるいは意味上の共通項を見いだし、それを編集によって可視化しようとする。

本展でもこうした分析や作業を経た映像作品を見ることができる。しかし、完成された映像作品は編集の結果である以上、その編集のプロセスはノイズとして排除される。興味深いことに、映像には撮影された動画そのものの時間は存在するが、それを編集した時の制作者が生きた時間は「無かったこと」になっているのである。いくつもの撮影動画を見返して、それを切り刻み、つなぎ、統合してゆく、それこそ撮影時間に匹敵するほどの長い時間は、映像作品においては、あらかじめ失われている。

宮永は、この映像作品につきまとうパラドキシカルな時間の絶対性に抗おうとする。その反乱のためのアジトが本展では組まれる。おそらくそこから起動されるのは、大小さまざまなノイズに溢れた風景であるはずだ。なぜなら、それは宮永が自分の周りの世界に一方的な眼差しを注ぎ、任意の風景を切り取って組み合わせただけのしろものではなく、宮永亮という1人の人間が生きている時間が抜き去り難く存在する世界のありようだからである。

高橋瑞木企画:<風景の再起動>
私たちの目の前に拡がる景色は、漠然と見ていればただの「眺め」にしか過ぎないが、そこに何かを発見し、読み取り、切り取ることで「風景」へと変わる。つまり、まなざしではなく、景色の中に分け入る能動的行為が「眺め」を「風景」へと転換するのだ。風景を題材としたイメージは巷にあふれ、雑誌やモニターの中で私たちは日々無数の風景と出会うことができる。しかし、作家が実際にその風景に自分の身体を晒しながら瞳の奥に潜むレンズでそれをスキャンし、そこに内包される歴史や構造を解きほぐすことで、風景は新たな扉を開いてゆく。しかし、いまだ扉の先に道はない。あるのは作家が時には迷い、ときには断固として灯してゆく道明かりだけだ。新たな色彩とレイヤーの灯火は、どんな地平に私たちを導くのだろうか。

いつもながら、ではあるが、今回の展示も自分自身がその場に赴き、撮影した映像素材を元にイメージが構成される。ある作品を作る為のある映像素材群、という考え方をそもそも持っていない。撮りたいと思うもの、土地、文化のある場所に赴きイメージを収集する。それをデータベースとして保存しておく。その中から、必要だと思う素材を抜き出してきて構成を行う、と言う過程を踏む。

ビデオカメラと言う道具を使って「あるもの」を撮影し、キャプチャーされたイメージが、その「あるもの」を説明し切る事はあり得ない。そのことは映像技術がめまぐるしく進歩しつつある現代でも基本的に変わらない。記録とは不完全な複製である。粗雑で、海綿のようにスカスカなイメージをかろうじて持ち帰り、なんとかその隙間をデータベースにある手持ちの素材を使って埋めようとする。僕が続けているのは、そう言う一見不毛な行為である。

しかしこのことは非常に重要な事だと思っている。作品を作り始めるたびに、繰り返し繰り返し、一番低い、しかしとても広い地平に立つ。そう言った行為を自分の生に織り込んでゆく事は、様々な価値の在り方を排除しない姿勢を自分に課す事だからだ。

本作を通して鑑賞者は、素材から構成されたイメージを見て、また素材の前で立ちすくむと言う行為をする事になるだろう。しかしそこにある方向性とは、単純に直線上の2点間を行き来すると言う事ではなく、ある円上の点ABを、A-B-Aと言う順に円を描く、1つの円運動の方向性になるはずである。願わくばA-C-A、A-D-Aと様々な円の重なりを感じてもらいたい。今回の映像インタレーションでは、そう言った円環性をイメージの構成からだけではなく、インスタレーションを形作る物質そのものを含めて提示したいと思う。
-宮永亮

宮永亮 みやなが・あきら
1985年北海道生まれ。2009年京都市立芸術大学大学院美術研究科(修士課程)絵画専攻造形構想修了。自然の風景などを断片的にビデオカメラで撮影し、その集めた素材を吟味しながら掛け合わせていく手法で映像作品を制作していく。主な個展に2010年「making」、2009年「Wondjina」(共に児玉画廊)など。
http://www.myspace.com/akiramiyanaga

全文提供: gallery αM


会期: 2011年10月22日(土)~2011年11月26日(土)
会場: gallery αM
アーティストトーク: 2011年10月22日(土)16:00~17:00
トークイベント: 2011年11月26日(土)16:00~17:00 宮永亮x下道基行x高橋瑞木

最終更新 2011年 10月 22日
 

編集部ノート    執筆:田中みずき


宮永亮 《arc》
2011, Multi-channel Video Installation
Copyright© Akira MIYANAGA
画像提供:gallery αM

   全く違う体験をしているのに、かつて観た風景を思いだしてしまうことは誰しもあるだろう。デジャヴもそうだが、知らないうちに、数え切れない程の風景は記憶の中にストックされ、しっかり言葉にできないのに同じ要素を選別している。  宮永の本展覧会では、本来は全く別の場所で撮影された海に浮かぶ船や、海で遊ぶ人々、町の風景、田んぼ、逆光の中で降り注ぐ雪を写した映像などが、興味深い仕掛けによって展示されている。入ってすぐ、床の上に広がる映像を越えて奥に進むと、両脇の展覧会場の壁や仮設住宅のような建造物、スクリーン等が目に入る。それぞれの映像が別個に壁やスクリーンに上映されているが、中央に造られた建造物の壁には、海や、昼と夜の光、建物や田んぼといった道の横に連なるものなど、お互いに別の場所を写した映像でありながら共通する要素を持った複数の映像が一つの画面に重ねられているのだ。全く違うようでどこか重なっていく映像が面白い。また、本作の中には、作者が映像を撮影した「過去」の時間と、その映像を観る鑑賞者が展覧会場をぐるりと周る「現在」の時間という二つの時間軸がある。展覧会場の中心で観られるものが、幾つもの映像の重なりであるという配置によって、時間軸が複雑に重なり合い、「映像を観る」という体験そのものを意識させられる点も興味深い。
   時間という要素が必ず含まれる映像作品の性質を生かした本展覧会には、現場で体感して鑑賞する楽しさが凝縮されている。時間をかけて鑑賞していただきたい。


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