成層圏Vol.1:椛田ちひろ『「私」のゆくえ』 |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 2月 10日 |
手探りの欲望、あるいは表象を超える絵画 田中正之 自分が実際に、現実に生きている世界の範囲は一体どれくらいの広さなのか。心理学では、そういったことが考察されている。電車や飛行機に乗ればどこにでも行けるのだとすれば、自分の生きる世界は限りなく広がっているように思える。自分の存在できる世界は可能性としては無限だ。しかしたとえ東京からニューヨークに移動しようとも、自分がその瞬間その瞬間で実際に生きている場所は、実は非常に限られた範囲でしかない。領域としては目で見ることができる範囲に限られ、実感としては手や脚など躰の一部で触れることのできる範囲に限られている。五感という身体的感覚の及ぶ範囲が、生身の自分が、身体的実感をもって生きることのできる範囲で、それは実は非常に狭い。そして、その範囲を超えて広がっているのはあくまでも想念のなかにしか存在していない世界、観念の世界である。ニューヨークにいるときには、東京はあくまでも観念の中にしか存在しない。この観念の世界を構築しているのは、いうまでもなく言語だろう。つまり身体的世界の周りに表象的世界が取り巻いており、人はそのようなふたつの世界を同時に抱え込むことによって自分が生きる世界を構築している。しかし、言語を習得する以前は、自分の生きている世界はすべて身体的実感で充実していたはずである。 自分の身体そのもので実感をもって生きている世界と、表象として(身体とは直接関係なく)構築されている観念的世界の間には、見えない壁が立ちはだかっている。椛田の作品は、この壁を顕在化させたようなものだ。そして表象以前の身体的実感をもった充実を取り戻そうともがく欲望がその壁をのたうつのである。まるで言語・表象を超えて生身の身体だけで自分の世界を再び構築しようとするかのように。だから椛田の作品は、表象を超えようとする絵画だ。 決定されないイメージ 椛田ちひろ 私の絵画は、観客に未決の状態を保証する。そして、この「未決の状態」は私の制作プロセスそのものでもある。私は、「ただ描く」という行為によって「絵」を完成させている。この「ただ描く」という行為はたとえるなら、目的地を決めずにただ歩くということだけをしているようなものだ。ただ歩くということだけでは到達地点に、結末に辿り着くことはできないが、そうした非決定の積み重ねが創り上げる「未決そのもの」が作品となる。 かばたちひろ 全文提供: gallery αM 会期: 2011年4月2日(土)-2011年5月7日(土)12:00 - 16:00 ※4/29~5/5休廊 |
最終更新 2011年 4月 02日 |