津田直:果てのレラ |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 8月 13日 |
私が今いるこの場所を、たとえば日本の中の東京と捉えるのか、宇宙の中の地球と捉えるのか。あるいは、過去・現在・未来という時間を、一分/一時間/一日といったスパンで捉えるのか、百年/千年/一万年といったスパンで捉えるのか。場所と時間を軸にして、自らをどれだけの距離から俯瞰し、位置づけることができるのか。重要なことは見えるもの、知っているものだけではなく、見えないもの、知らないものにいかに想像力を働かせることができるかである。津田直の写真にあらわれているのは、その一連の、場所と時間についてのきわめて広大なヴィジョンであり考察にほかならない。一宮市三岸節子記念美術館での個展「津田直展 果てのレラ」(2009年7月11日〜8月16日)は、新作≪果てのレラ≫に加え、天体をテーマとする≪七曜≫(2006年)シリーズ、≪盥星図≫(2008年)、≪彼方の星≫(2007年)、≪Yamato≫(2009年)を展示し、それらを見事にあらわした。 「レラ」とは、アイヌ語で「風」を意味するという。つまり「果てのレラ」とは、「果ての風」である。ではどこの「果て」なのか。作品は、日本列島最北端の島である礼文島、多くの海鳥が孤島に停まるさまを鳥瞰的に撮影したものから始まり[fig. 1]、最南端の波照間島、岩盤を足下にその先に広がる海と島を見つめる写真で終わる[fig. 2]。「果て」とは、日本列島の「果て」、北海道と沖縄という日本の両端である。資生堂ギャラリーでの「SMOKE LINE 風の河を辿って」(2008年10月28日〜12月21日)が中国、モンゴル、モロッコの風景を一列に組み合わせ、同じく「風」をテーマとするものでありながら地球を横軸で捉えたものとすれば、本展は縦軸でそれを行なっているとの指摘もできようか。 礼文島の写真は海が中心であり、ほとんどに水平線が取り込まれている。海はもちろん岸壁を撮影したものもその左端や中心に水平線が写ることで、それが絵画でいうところの消失点の役割を果たし、画面の奥へ奥へと鑑賞者の視線を向かわせる。近景と遠景が入り交じっているという点で、それらは杉本博司の≪海景≫のような統一的な光景ではない。加えて波照間島の写真は、遠景が多い礼文島とは対照的に近景を撮影したものが目立ち、同じ「果て」でも津田の眼差しが異なることが明らかだ。それはもしかしたら、「果て」は必ずしも遥か遠方を意味しない、ということなのかもしれない。そのため鑑賞者の立ち位置は落ち着かず、見えるもの/見えないものの淡いが立ち上がる。 ≪果てのレラ≫シリーズ全15点中の9点目(「#9 〈diptych〉」)、赤瓦屋根の家から波照間島の場面に入ったと想像するが、「#7」「#8」にはそれが端的に表れている[fig. 3][fig. 4]。どちらも夜の、もしくは早朝の海ないし山を撮ったものと考えられるが、あまりに暗い光景であるがゆえに、いつ・どこを撮ったものなのかわからない。私の目はその暗闇に慣れるまである程度の時間を要したが、それでも、海らしき、山らしきシルエットが朧げに見えてきただけである。だから、「#9 〈diptych〉」から波照間島であろうと書いたのも、あくまでも想像で、実際は違うかもしれない。 そう、言うまでもないが重要なことは、どちらが礼文島で、どちらが波照間島なのか、その判別にあるのではない※1。作品が日本列島北端の礼文島を撮ったものだから、南端の波照間島を撮ったものだから、作品として成立しているのであればそれほど簡単なことはない。想像力は、ある特定の場所と即座にわかるところより、なんだかよくわからないが、なんとなくこういうところなのではないかと想像できる方が刺激されると私は思うから、先のような写真が入り込むことには大きな意味がある。暗闇に目を凝らすこと、それは未踏の地へ足を踏み入れていくことと同義である。会場に並ぶ太陽や星々をテーマとする作品が、「果て」の風景を空から照らし私たちを導く。そこには天体の運動という意味での、朝があり、昼があり、夜がある。 脚注
展覧会名: 津田直:果てのレラ |
最終更新 2011年 3月 03日 |