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宮永亮:地の灯について
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2010年 6月 29日

fig. 1 《Wondina》|2009年|HDビデオ|画像提供:児玉画廊|Copyright © Akira Miyanaga

fig. 2 《宮永亮:地の灯について》展示風景|画像提供:児玉画廊

移動中の車載カメラから撮影された夜の街並みの映像が、ブレも街の騒音もそのままに、いくつものプロジェクターによって複数の壁面に投影され、会場を包みこむ。薄ぼんやりとした会場の中で、床置きのプロジェクターや配線が露わになっている。宮永亮の新作インスタレーション《地の灯について》(2010 年、8chビデオプロジェクション)は、旧作《Wondina》(2009年、HDビデオ)[fig. 1]の極めて端正な作りに比べれば、実験回路を思わせる危うさと魅力を湛えている。

何のリズムも持たないはずの夜景と騒音は、ループする映像作品へとまとめられることで、一定のスピード感を持ち始める。夜景と騒音という極めてアナログな素材にもかかわらず、単調なリズムとループ映像から成るせいか、思い起こされるのはテクノやエレクトロニカなどの電子音楽だ。とりわけsquarepusherの「Iambic 9 Poetry」(アルバム「Ultravisitor」収録)を彷彿とさせた。しかしながら両者は、まさに正反対の取り組みのように思える。

Squarepusherの同曲は、単調なループの繰り返しの中で徐々に個々の音のパートがずれていく。本来重なり合わない部分が重なり、反面、重なり合いの中で消えていた部分の音が露わになり、音楽としての統一感は失われていく。クライマックスになるにつれて、その差異は更に大きくなり、音楽としては自壊していく。一方で、統一感を欠いたノイズの中から個々の音の美しさが浮かび上がる。

他方、会場の中で中央の最も大きな壁面に投影された宮永の映像は、映像のシークエンスが徐々にずれることで、例えば月極駐車場の看板のライト、信号機、煌びやかなファミリーレストランの室内灯、歓楽街のアーケードなど、複数の異なる時空の夜景が次第に多重化していくように編集されている[fig. 2]。 細部を見れば、日本と分かる個々の夜景は、ループを繰り返していくうちに重なりあい、光と騒音のレイヤーは複雑になり、やがて抽象的な映像へと変容する。抽象化された映像は、もはや特定の場所や対象を指すことのない、光の渦でしかない。しかしながらそれは、きらびやかな香港の夜景でもあるような、うらぶれ た地方の歓楽街のネオンのような、つまりどこかであってどこでもない既視感と未知の感覚が綯い交ぜとなった奇妙な感慨を催させる。このようにして彼は個々の夜景の個性とも言うべきものを縮減させ、単一的な光の渦へと還元していく。

宮永はこの重ね合わせの作業の中で、異なる夜景に共通する普遍的な リズムを測っているかのようだ。宮永自身、プレスリリースにおいて「世界に多様性をもたらしているものは、異なる単位ではなく、同一の単位が異なるリズムで振る舞うからではないか」※1 と述べていることからも、彼の探究目的のひとつが多様性の中に存在する同一性であることは明らかだろう。

しかしながら多様性は、同一性へと容易に回収されることはない。展示空間の中、最も大きな壁面では車載カメラが捉えた一続きの映像が徐々に重なり合い、光の渦となり、再び一続きの映像へと戻るループ映像が映し出されているものの、別のプロジェクターでは、それぞれ異なる壁面に個々の夜景が映し出されている。更に個々のプロジェクターの前に必ず半透明のアクリル板が置かれ、映像は部分的に反射し、小さな反射像がプロジェクターの背後の壁にも現出している。こういった個々の光景は、光の渦に巻き込 まれることなく、つまり同一性に回収されることなく単体でループを続ける。このようにして宮永が作り上げた実験回路とも言うべきインスタレーション空間は、多様性をひとつのものへと統一することの困難さを露わにする。つまり彼は「小さな物語」の乱立にも「大きな物語」の復権にも寄り添うことなく、多様性の中に潜む「同一単位」への、容易ならざる探究を試みているのではないだろうか。


脚註

※1
http://www.kodamagallery.com/miyanaga201004/index.html
最終更新 2015年 11月 02日
 

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