エミリー・ウングワレー展 |
レビュー |
執筆: 瀧口 美香 |
公開日: 2008年 9月 23日 |
無数のドットは、花粉か、砂嵐か、火の粉か、岩石の結晶のように見え[fig. 1]、からまる無数のラインは、カンガルーの毛か、地中に根を張る植物か、砂の上に残るとかげの足跡のように見えた[fig. 2]。しかし、これらの作品は何か具体的なもの(たとえばアボリジニの自然)を下敷きに、それを抽象化したもの、というだけでは説明がつかない。 自らの生まれたところ、育ったところ、そしてここで死んでいくところ、その場所を、これほどまでに大きな肯定をもってとらえることができるというのだから、エミリーはよほど幸せな人であると思う[fig. 3]。 中央の下のあたりに、やや暗い青のドットが集まって、何やら人がうずくまっているようにも見え、ここでこの姿勢で産み落とされ、この姿勢で死んでいくであろうエミリー自身の姿であるように思った。ドットで表された身体は、やがて故郷の風景を形づくる他のドットと混ざり合って、その中に解けて消えていってしまう。彼女のドットの身体が溶け出していくように、ここには彼女の両親、祖父母、曾祖父母の生きてきた生が、やはりドットとなって溶け出している。アボリジニのボディー・ペインティングを施された身体は、その死とともに朽ちていくが、模様だけはここに残って、故郷の風景の上に二重三重に折り重なる。このようなドットが溶け出した空気を、エミリーは故郷と呼ぶのだろう。 歴史とは、誰が今あるわたしのために死んでいったか、わたしの生は誰の死の上に成り立っているのかを選択するところに作り上げられていくという※1。この作品は、エミリーの今ある生のために死んでいった人々がその構成要素となって、作り上げているのかもしれない。 亡くなる2週間前に描いたのは、これまでのようなドットでもラインでもなく、ああこの人はすでに天国の入口を見てしまっているのだ、と思う[fig. 4]。死が近づきつつある時、これから向かうべき場所を垣間見る人は、あるいはそれほど少なくないかもしれない、しかし見たものを見たままに画像として残せる人はそう多くはない。 ここは、足の裏を地面につくことなく歩けるような場所で、ここまでやってきましたという足跡が、あえて点々とつけられている。 白い靄(もや)のようなものにおおわれ、岩の壁のように塗り固められたところに、亀裂が入って、やがてそれが大きく広がり、長方形の、人が出入りできるほどの縦長の開口部となった[fig. 5]。その内側の白はやや青みを帯びて、そこだけ気温が異なっている。このような場所であれば、ひるまず足を踏み入れよう。ここに近づくほどに、こころも身体もどんどん軽くなっていく。そういえば、どことなく見覚えがある場所である。確かにわたしは生まれる以前この場所にいた、そしてわたしがこれから行くべき場所はたぶんこういうところだ。エミリーの目の前で今、神の国への扉が開かれた。 * 画像出典:マーゴ・ニール他著『エミリー・ウングワレー展---アボリジニが生んだ天才画家』読売新聞社(2008年) 脚注
参照展覧会 展覧会名: エミリー・ウングワレー展 |
最終更新 2016年 8月 12日 |