アーティスト・ファイル2009 |
レビュー |
執筆: 桝田 倫広 |
公開日: 2009年 5月 01日 |
今年で二回目を数えるアーティスト・ファイル展。つい先ごろまで行われていた加山又造展の喧騒は一体どこへ。閑散とした美術館は、いつも以上に空疎に感じられる。(場外チケット売り場は閉まっており、展示会の出入り口で、チケットの売買ともぎりが行えるくらいなのだから!)おそらくルーブル美術館展が始まれば、再び賑やかな姿を取り戻すだろう。 このアーティスト・ファイル展、統一的なテーマを特に定めない点を最大の特徴と謳っているわけだが、去年と同様に、いやそれ以上に、締まりのない展覧会という印象を持たざるを得ない。今回選出された9名の作家たちは、「30代前半から50代後半までとかなりの幅があり、また作品の有りようも平面、立体、映像、インスタレーションとさまざま」で、各個人ともに「自身の道を真摯に追求し、独自の表現スタイルを獲得している」らしい。そして、彼らの作品を通じて、「今日の美術状況をご覧いただくと共に、現代の作家たちがいかに社会と向き合い、どのようなまなざしを持って制作をつづけているか確認いただきたい」とのことだ。一体、そのような誰もが当てはまりそうな選定で、今回の9名がどうして選ばれたのだろうか。 確かに、今日の美術のひとつの潮流を明確に定義づけることは、ポスト・モダンが常態化した現代においては、殆ど難しいことであろうし、敢えて定義づけたとしても、それは徒労に終わることも多い。一方を立てれば、他方に角が立つ。万事に丸く収まる概念、定義、線引きなどは、現実にはなかなかありえない。しかし、だからといってテーマを設けないということは、学芸員としての職務を半ば放棄していると言えはしないだろうか。その時、今回のアーティスト・ファイルと、ブロガー(例えば私なんか)が好きな作家を挙げ並べることと、いかなる違いが見出せるのか。 例えば、今回の展覧会カタログを読んでみよう。推薦者たる学芸員が、その作家との「出会い」について終始語る内容も散見される。とはいえ、今回出品された作家が「いかに社会と向き合い、どのようなまなざしを持って制作」しているか、という検証は、最低限果たされていると言えるところもある。しかし、その「まなざし」を2009年の現在、「国立」という接頭語が冠されている美術館において展示することの意義づけが、不明瞭であると言わざるを得ない。よもや選択しないという態度によって、学芸員という権威を自ら脱構築させ、自身を「ラディカル」であると、装うつもりではあるまい。あるいは、テーマを設けないという態度を通じて、およそまともな人が目を通すならば、すぐさま頭痛を催してしまいそうなほど晦渋に、横文字を連ねて練り上げたけれども、それって要はポスト・モダンなんでしょ、と一言で済んでしまうような、平凡なオリジナリティーに富んだ数多のテーマ展に対する無言の排撃なのだろうか。仮にそうだとしても、それは欺瞞にしかならないだろう。何故なら、統一的なテーマを設けなかったとしても、選ばれた作家と選ばれなかった作家がいるわけで、そこには、選択責任と説明責任が生じるのではないだろうか。今回の作家選別が、学芸員の完全なる趣味判断であるならば、-とはいえ、趣味判断であることは必ずしも悪いことではないし、人は凡そ趣味判断からまぬがれることは不可能であると思われるけれども-学芸員の趣味判断とブロガーの趣味判断の差異を明確にしなければならないのではないだろうか。 そういうわけで、以下のように仮定しよう。実際、国立新美術館は大きな貸スペースである。(ウェブサイトで確認してみると、2週間を約100万円で借りることができる。銀座の小さな貸画廊を借りようと思えば、1週間30万前後かかるから、それに比べると大変お得かもしれない。) 学芸員はこの展覧会のために身銭を切って、スペースを借用し、運営しているのだとしたら、何をしたって、彼らの自由であろう、と。貸画廊で、大仰なテーマ展をこぢんまりとやっても誰にも文句を言われないのだから、その延長線上にアーティスト・ファイルがあるのだ、と考えれば合点がいく。お金さえ払えば、その場所で、好きな作品を好きなように並べる権利がある。 本当に学芸員が、身銭を寄せ集めてスペースを借りてアーティスト・ファイルを運営しているのだとすれば、本当に本当に涙ぐましい努力!だけれども、おそらくそんなことはない。要するに、学芸員とブロガーの差異は、単なる社会的立場の差異でしかない。つまり統一のテーマを設けない、という「ラディカル」な方法(?) は、その実、彼らが選別者である学芸員という社会的地位にいるからこそ可能な所業なのだ。当世社会学的言説を弄してみれば、学芸員であること自体が「既得権」なのだ。嗚呼、数多の学芸員志望者や、常勤の道が断たれた非常勤学芸員の怨嗟の声が聞こえはしないだろうか。知恵とお金を絞り出して、オルタナティブなスペースなどにおいて意欲的な展示を企画したり、実際に運営したりして、自身の研鑽に努めているというのに、常勤にはなれず仕舞い。方や常勤の国立学芸員たる彼らはさしたるテーマも決めず、お金も払わずして、有名建築家が建てた、大きくて気持ちの良いホワイトキューブを好きな作家に与え、好きなように使えるのだから。つまり、恐らく「テーマを設けない」という態度は、テーマというものが不可避に抱える齟齬への自覚に起因するのではない。むしろ「テーマを設けない」でも展覧会が企画可能・運営可能という彼らの権力行使の所産に他ならない。つまり、どんなテーマ展よりもアーティスト・ファイルは権威主義的な展覧会なのだ。 だからといって、アーティスト・ファイル自体は、続けていって欲しい企画である。今回紹介されていた個々の作品をみれば、中には見応えがある作品もある。何より日本の美術界の空虚な状況の象徴とも言うべき収蔵品を持たない美術館である国立新美術館の最後の良心として、あるいは贖罪として、日本の現代美術を展覧し、カタログとしてだが、それでもアーカイブしていくことには、大きな意義があるだろう。しかし、中途半端な良心ほど、人を傷つけるものもないのも事実。今後の運営の継続が心配になるくらい閑散としていたが、どうか「日本のアートセンターとしての役割を果たす大切な事業」として、学芸員の「視点や活動の進化が問われる展覧会として、総力を挙げて」引き続き取り組んでもらいたい。パルジファルよろしく「傷は傷つけた槍によってのみ癒される」のだから。 |
最終更新 2010年 6月 13日 |