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束芋:断面の世代
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2010年 2月 09日

fig. 1 《油断髪》2009年|映像インスタレーション
画像提供:横浜美術館

fig. 2 《団断》2009年|映像インスタレーション
画像提供:横浜美術館

fig. 3 《ちぎれちぎれ》2009年|映像インスタレーション
画像提供:横浜美術館

fig. 4 《BLOW》2009年|映像インスタレーション
画像提供:横浜美術館

    イメージの変化とその変化に伴うイメージの連鎖。そして、その中に組み込まれる社会性。それこそ、映像であれ挿絵であれ、《にっぽんの台所》(映像インスタレーション、サウンド付三面、5分10秒ループ)で1999年にデビューし、2009年で十年になる束芋の創作に認められる一貫性である。  横浜美術館での大型個展「束芋:断面の世代」展で展示されていたのは、今回の個展のために制作された五点の新作インスタレーションと、2006年から2007年に『朝日新聞』で夕刊連載された吉田修一の連載小説『悪人』の挿画だ。まず、エントランスに映し出されているのが《団地層》(映像インスタレーション[2分53秒ループ]、2009年、個人蔵)である。天井高のあるエントランスの壁面を効果的に使った縦長の作品で、団地らしき集合住宅の断面図から、それぞれの部屋に置かれている家具が眼下へ落ちていく。その様子はまるで滝のようだ。物に溢れた部屋が空っぽになっていく様は壮快だが、映像がループし、物に溢れた部屋に戻るからこその批評性をここに見たい。

    最初の展示室に展示されているのは《惡人》(墨・和紙[2006-07年]、映像[2009、ループ]、各34.6×136.0cm[50点組]、個人蔵)である。一枚一枚がまるで絵巻物のように連続する紙面として繋ぎ合わされており、一つのイメージから展開する新しいイメージの連続を見る事ができる。たとえばネクタイを結ぼうとしている人のネクタイの先が流水紋のように水の流れと化しており、そうかと思えば次の場面で水の流れが女性の髪と同化している箇所がある。この場合、ネクタイと女性の髪の毛のイメージの間に水が挿入されることでイメージの連鎖が無理なく行なわれているように見えるが、中には女性の頭部から電車が生えているような唐突なものもある。これらの挿絵に少なからず見ることができる身体の一部の切断や改変は、今回の新作からも度々見ることができる束芋作品の特徴であり、『惡人』から派生した映像《油断髪》(映像インスタレーション[4分13秒ループ]、2009年、個人蔵)[[fig. 1]では身体の一部の切断が、「ヘアカット」というその最もわかりやすいかたちであらわれている。主人公は『惡人』では決して主要な登場人物ではない、風俗嬢の金子美保である。画面の左右に配置された金子の髪の毛があたかもスクリーン横のカーテンに見立てられ、舞台のような髪の毛の分け目の間で金子のメタファーらしきシャワーを浴びている指先などのイメージが展開されるが、何よりも印象的なのはそこで展開されるイメージではなく髪の毛そのものだ。金子は自ら髪の毛にハサミを入れたり、髪の毛によってその場で展開するイメージを荒波のごとく洗い流したりする。まるで髪の毛こそ当の女性の意思を体現しているかのようだ。

    ついで、《団断》(映像インスタレーション[ループ]、2009年、個人蔵)[fig. 2]は三面プロジェクションが使われ、集合住宅の隣り合う部屋の俯瞰図が同時並行的に縦にスクロールしていく。窓ガラスが割れ、ベッドに血らしき赤いシミが付着している不穏な部屋もあれば、便器の水で顔を洗っている女性もいる。描かれるのは、隣り合うにもかかわらず互いにまったく関係を持たない人々の姿だ。それらはこんなにも近いところで起こっている出来事であるにもかかわらず、「私」は隣の部屋で何か事件らしきことがあったことも、隣人が便器で顔を洗うという特異な習慣を持っていることも知らない。描かれているのは現代の孤独である。

    《惡人》と《油断髪》で見た「身体の切断」は、《ちぎれちぎれ》(映像インスタレーション[2分43秒ループ]、2009年、個人蔵)[fig. 3]でよりはっきりとしたかたちをとる。映像で中空に安置されているかのごとき裸の男性/女性の身体は、次第に一部が欠けていき、それら腕や足の断片はたゆたう白い雲以外漆黒の空中に落ちていく。ここでは身体の皮膚が透過し、人体模型のごとく内臓が露出する様も見ることができるが、このイメージは五点目の《BLOW》(映像インスタレーション[3分42秒ループ]、2009年、個人蔵)[fig. 4]にも継続する。観客の足下からその左右の壁面にかけて映像が映し出される作品で、全体を貫くのは水のイメージだ。足下の映像には水中らしく泡(あぶく)が描写され、水面下にあらわされている人間の血管や筋肉の筋が、水面から出ることで皮膚を伴ったかたちや花に変化する。束芋曰く、「個の内側から外に向けて発散されるものを表現したい」※1。《団地層》、《油断髪》、《団断》の三点が具体的な要素を盛り込むことで現代社会を描写していることとは対照的に、《ちぎれちぎれ》、《BLOW》の二点は「社会」以前の「生命」を描写しようとする態度が見受けられる。

    このように、束芋の作品は一貫しているがゆえの強度がある。だが、この「一貫性」は映像を使用する作品であることも手伝って「単調さ」と表裏の関係にある。束芋の作品は乱暴にまとめれば、冒頭から終盤にかけて沢山のイメージがあらわれ、最終的に「無」へ帰るという構造をとる。展覧会における映像は基本的に繰り返されるから、したがって束芋の作品のループが見せるのは、イメージの発生と消滅の繰り返しである。映像はおよそ三分から四分という比較的短い時間であり、観客は繰り返し鑑賞しやすい。しかし描写される内容ゆえに、繰り返し見れば見るほど私は空虚さが募った。
    展覧会タイトルにある「断面の世代」とは、束芋が名づけた自身の世代(一九七〇年代生まれ)の呼称であり、「個」や「細部」への執着が特徴だという※2。なるほど、束芋の作品は孤独と同義でもある個への執着が見て取れるし、イメージもとても細やかに作られている。自らを客観視し、半ば回顧的な思いを籠めて制作を行うにはゼロ年代の終わりはふさわしかったに違いない。
    けれどもそれはあまりに老成した態度のように思われた。束芋が風刺する社会像が的を射ているからこそ、そのことを前提に、作品で次代への展望を提案することはできなかったか。束芋の作品はもしかしたら、奇しくも束芋デビュー前年の一九九八年に椹木野衣が『日本・現代・美術』※3で提案した、「近代化」がそもそも完了していないがゆえに歴史が進まずただ繰り返し(ループし)てしまう「悪い場所」としての「日本」の姿を端的にあらわしているのかもしれない。しかし言うまでもないように、ループだけでは私たちはいつまでも前に進むことができない。

脚注
※1
横浜美術館、国立国際美術館監修『束芋:断面の世代』青幻舎、2009年、p.14
※2
横浜美術館、国立国際美術館監修『束芋:断面の世代』青幻舎、2009年、p.2
※3
椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年
最終更新 2010年 8月 25日
 

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