六百七十二匹の蝶が壁にぺったりと貼り付けられている[fig.1][fig.2]。なぜ数がわかるかというと丁寧に全部数えたからではもちろんなく、整然と横二十一匹、縦三十二匹の列になっていたからだ。それぞれは標本のように中心を虫ピンで留められている。
ただ、その蝶の隊列は斜めになっている。それゆえどこか落ち着かない。さらに、その蝶は本物の蝶ではない。実際のところは蝶のかたちをしたフィルムに大小のドットがシルクスクリーンでプリントされ、模様を形作り、蝶らしい外見になっているのである。
加えて、六百七十二匹のそれら蝶は、わずか六種のコピーである。※1 ドットの集積に加え、まったく同じ形態の繰り返しはこの蝶がきわめて機械的な作業によって作られていることを意味している。ざわざわと気持ちが駆り立てられたのは、人工的な同一形態の過剰な反復による心理的圧迫が原因か。
《Chain/banana,ice》(DVD-R、2009年)[fig.3][fig.4]は大西には珍しい映像作品で、五台のモニターを横一列に並べて使用している。そこではバナナと氷の映像が繰り返される。次第に、バナナはその黄色い皮が黒々と変化していき、氷は溶けていく。しかし、画面下部の横一列部分だけが一向に変化しない。バナナは変色せず黄色いままで、氷は溶けず四角いかたちのまま残る。モニター五台はすべて同じ映像が流れているから、最終的に変化しない部分だけが鎖のように繋がるという仕掛けである。
この変化しない部分は、大西が差し替えた偽物だ。そしてこの偽物が本物の存在を際立たせている。最終的に本物は溶け/腐り、溶けない/変化しない偽物にその場所を譲り渡す。本物は死に、偽物だけが生き続ける。
私が怖れを感じるのは、この変化しないということにある。「不変」であるということがいかに怖ろしいか。にもかかわらず、変わらないことの崇高さがどれだけ喧伝されていることか。美はその最たるものなのかもしれない。大西の《Chain》は、バナナと氷というなんでもないものの一部分をさも大層なものであるかのごとく不変のものに仕立て上げることで、不変であることの不気味さを際立たせる。不変であること、すなわち同じであることである。
蝶のインスタレーションと映像作品は一つの空間に展示されているが、その間にはスピーカーが取り付けられた木製の壁が作られている[fig.5]。《Music for Chain》(2009年)から聞こえてくるのは、鳥の鳴き声だ。その他の作品を見ている間もチュンチュンと、スピーカーからは絶えず聞こえてくる。一つの空間で左右のスピーカーから出力される鳥の鳴き声は反響し、鳥がそこかしこでさえずっている山中であるかのように演出する。しかしそこは言うまでもなく山中ではない。ギャラリー空間である。そしてそのスピーカー付きの壁はそもそも、幾分ぶしつけな設えだ。入口から入るとまず、壁に取り付けられたスピーカー部分の背面が見える。機材が隠されることなく晒されている。最初はただの間仕切りに見えるからすぐは気づかないが、会場で響いている鳥の鳴き声が堂々とここから発せられているということに気づくまでそう時間はかからない。鳥の鳴き声のコピーとその反復は、今回の展示作品すべてに通じる要素を簡潔に伝えている。
ギャラリーノマルでの今回の個展「Chain」で大西が見せたものはこのように、立体であれ、平面であれ、音楽であれ、映像であれ、そのコンセプトの核となるところが「同じ」である。「本物」と「偽物」、「唯一性」と「複製性」を巡る思考が絶えず反復されている。だがしかし重要なことは、大西は実に様々なヴァリエーションを提案しているということだ。すなわち、思考の大本は「同じ」だがそれぞれ出力の仕方が異なるために微細な「ズレ」が生まれるのである。だから私は大西の作品を前にして、「同じ」ものの不気味さに慣れることなく怖れおののいてしまったのである。
以下の六種類である。
オオゴマダラ、ツマベニチョウ、モンシロチョウ、メスグロヒョウモン、ジャノメチョウ、ウラジロミドリシジミ