作品が、積み重ねられた金型や古びた欄干を利用して設置されている[fig. 1]。作品の隙間から奥の空間が見え、その先には色々なものが乱雑に置かれている[fig. 2]。一般的な美術館の比ではないほど高い天井から備え付けのスポットライト二点が作品を照射し、建築物の窓からも同時に柔らかな陽が射し込む。が、壁面には所々穴が空いている箇所もあり、そういうところから射す光が時に作品の一部を強く照らす。果たして何十年の結果か、空間はすべからく錆びたり油が染み込んだりしている。一度中に入れば気づかないが、外から内部を見れば、鉄粉か埃か、とにかく何かがきらきらと空中を舞っている。
今回佐藤裕一郎が作品を展示したのは埼玉県川口市にある鋳物工場だ[fig. 3]。2009年で創業九十年を迎え、現代も稼働している芝川鋳造がその舞台である。埼玉県川口市、SMFアートのわっ!実行委員会主催による文化事業「美術がまちに繰り出す 鋳物工場での美術展×アトリアでのシンポジウム」の一環で、展示と川口市アートギャラリー・アトリアでのシンポジウム(2009年11月28日)との二本立てで「創造」について思考する場を作ろうと試みられた催しのようだ。残念ながらシンポジウムは参加していないため詳細をレポートすることができないが、このような試み自体は近年盛んな行政主導の「アートで町おこし」の一つである。佐藤は山形県出身だが現在は埼玉県川口市に住み制作を行なっており、地元ゆかりの作家としてここでは位置づけられている。
芝川鋳造は空間自体がとても強い。工場だから当然だが、その姿は塵一つ落ちていないクリーンなそれではなく、先に記したようにそこかしこが錆び付き、油の痕があり、埃や鉄粉が舞うそれである。だが、そこにはだからこその強度があり美しさがある。人の営みに加え、長い時間の蓄積による現在の造形の圧倒的な存在感は、人によっては好ましく受け取られるものではないかもしれないが、しかし「美しい」という形容詞が用いられることを拒むものでもない。
それゆえ佐藤は近年の表面が整った作品群ではなく、旧作から屈強な佇まいの作品を三点ピックアップしたのだろう[fig. 4]。佐藤は向かって正面に《underground steam》(パネルにベニア板・土・砂・顔料・岩絵具・鉄粉、270×720cm、2005年)[fig. 5]を、右に《ground of non-formation 062》(パネルに土・砂・顔料・鉄粉、227×580cm、2006年)[fig. 6]を、左に《ground of non-formation 061》(パネルに麻布・土・砂・顔料・岩絵具・段ボール・紙、250×644cm、2006年)[fig. 7]を展示した。作品の画面には凹凸があり、ひび割れがあり、あるものは段ボール紙が重要な画面の構成要素となり(《ground of non-formation 061》)、《underground steam》に至っては画面の「余白」を取り払うかのように画面自体が蛇のような植物の根のような形態になっている。三点とも木材ないし画材の物質感が非常に強く現れたダイナミックな作品であり、茶褐色の色彩が手伝って大地あるいは土中のイメージを強く喚起させるのが特徴である。
面白いのは、これらの作品がこのために制作された新作ではなく、数年前の旧作であるにも関わらず、驚くほど空間に調和していたということだ。しばしば展示空間に対して作品が「負ける」とか「勝つ」という言葉を使うことがあるが、今回の佐藤の作品は空間に負けてもいなければ勝ってもいない。否定的な意味ではなく、お互いがお互いを生かしていたのである。佐藤が作品を展示するための壁面を新たに設置するなどせず、あくまでその場にある物を利用したのも要因だろう(一部外部からの持ち込みを含む)。
そうして金型の上に乗せられ、高さを手に入れた作品は、結果鑑賞者を囲い込み、工場の空間の中にもうひとつの空間を作り出した。現れたのは、宗教的とも言える厳粛な空間である。繰り返すがそこは一つの武骨で古びた工場であり、寺社仏閣や教会などの既存の宗教施設でもなければ、作品を見せるための工夫が隅々まで行き届いた美術館やギャラリーでもない。けれども佐藤の作品の持つスケールがその場と同調し、場に堆積している時間や人の思いのようなものすら引き出したかのようだった。この感触は明確な言語に置き換えることができる類いのものではない。とにかく佐藤の作品はそういうものとしてその時そこにあり、今私が心底書き留めたいと思うのはそれらに対してただ「美しい」と感じたことだけである。