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衣川泰典:未知なものと既知なもの
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 7月 29日

画像提供:neutron tokyo copyright(c) Yasunori KINUKAWA

美術のコレクターが社会的な地位を古くから保持しているのとは対照的に、風俗的な産物(時代の生み出すゴミや消費物、印刷物・・・一過性の価値しか存在しないと考えられるもの)をどれほど集めようと、その価値を見定めて評価する側の人が存在しなければ認められないのが常であったのだが、価値観の広がり(あるいは雪だるま式崩壊)が進むにつれて後者にも社会的地位が与えられるまでになってきた。大量生産が始まって以降の消費世界において、もはや人類学的・風俗学的に時代や産物をつぶさに考証することの難しさが増す一方であり、しかもそういった考察は現代においては物事の生まれてから消費される過程においてリアルタイムに行われることが必須であり、そのタイミングを逃すと次々と現れる新たな波に呑まれ、ピークを過ぎた産物には醍醐味が失われた抜け殻としての痕跡しか見られなくなってしまう。恐ろしいまでの潮の満ち干きの早さは加速度的に増し、一方では生み出される物事の賞味期限はごく短期間に狭められて来ている。

そんな時代において、コレクション(蒐集)という行為には相当の覚悟と自己における絶対的審美眼、常に何か(それが何かは問題ではない)を追い求める〈ロマン〉が必要である。思えば私も子供の頃に切手を集め出して以来、興味はガンダムに移り、キン肉マンに移り、ジャンプを読み耽り、VHSのビデオテープで映画を録画してライブラリーを増やし、洋楽のCDを買い漁り、大人になってきた。残念ながら多くの宝物は母親を代表とする理解のない女性達によって失われる運命にあるのだが、当の本人にとっても或る時期を過ぎたコレクションは自分自身の(当時の)ロマンの抜け殻でしかなく、振り返って懐かしさこそあれ、まさに熱中していた時ほどの執着が無くなってしまうのが一般的である。・・・しかし、そうでない者達、すなわち年齢や時間をどれほど重ねようとも、自分の蒐集する物事に愛情やロマンを失うことなく、コツコツと集め・磨き・陳列し、自身の人生の伴侶として表現する者こそ、まさに「コレクター」である。そして「コレクター」には圧倒的に男性が占める割合が高い。理由は明快である。一貫した・一生をかけたコレクションには少年のような純粋さと、社会的な視線に耐えうる頑固さ、とことんまで突き詰める研究熱心さ・・・つまり簡単に言えば「究極のロマン」が必要なのであって、多くの女性にはそれを全うすることは難しい。

衣川泰典はまさに傍から見れば馬鹿馬鹿しくも映る「究極のロマン」の継承者であり、同時に美術作家として表現を志す者でもある。誰に言われるでもなく、目的もなく始めたスクラップは今や美術として昇華されているのだから、自分だけの喜びを見出して満足する「コレクター」とは一線を画す。そもそも、彼が蒐集しているのはコレクションとしての価値を見出されるべきものとしては相当に程度の低いもので(失礼)、雑誌や新聞広告、町中のビラやチラシ、エロ本に至るまでの雑多な印刷物(消費され、捨てられることを目的とした浮遊する媒体であり、結果多くがゴミとなるもの)のスクラップである。それらは言い換えれば実態を持たない、匿名性と普遍性を帯びた都市の浮遊霊(ゴースト)でもある。ゴレンジャーやツタンカーメンが現れても、目線を黒く塗りつぶされた裸の女性であっても、彼らが印刷物である以上、もはや実物としてのリアリティーからは切り離された仮像(イメージ)であり、「入場」「販売」などの宣伝を目的としたパンダと同等である。そこには信憑性も信頼性も大きく揺らいでいることが多いのだが、一方では現実には起こり得ない夢のような出来事が見え隠れもする。まさにその領域に衣川泰典は夢を見つけ、現実に起こることよりも現実の生み出した仮想世界のロマンを胸の中の引き出しにしまうことを目的とし、スクラップを施す。

彼の絵に登場する少年の後ろ姿はもちろん、彼自身の姿である。目の前に散らばるのは彼が夢見る光景であり、欲しいと願うものであり、あるいは気になってはいるけど意味の分からないものであり、それ以上でもそれ以下でもない「もの」達である。だがそこには、男女問わずかつて見て来た夢の欠片がきっと存在するであろう。時代や性別を超えた憧憬のロマンの宝石達は、その純粋な輝きを星空のように作品に留め、私達を再び童心へと誘う。(gallery neutron代表 石橋圭吾)

全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 9月 16日
 

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