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宮永愛子:なかそら -空中空-
Reviews
Written by Aki KUROKI   
Published: December 31 2012
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[fig.1]
宮永愛子 ≪Quartet -butterfly-≫ 2011年
ナフタリン、はしご、ミクストメディア
© MIYANAGA Aiko Courtesy Mizuma Art Gallery

[fig.2]
宮永愛子 ≪景色のはじまり≫ 2011
金木犀の剪定葉6万枚、ミクストメディア 380x1,500cm
写真:宮島径
© MIYANAGA Aiko Courtesy Mizuma Art Gallery

【宮永愛子・参考作品(本展覧会では展示されていません。)】
宮永愛子 ≪色 -color of silence- (パリ)≫ 2010年
家具、ナフタリン、ミクストメディア
© MIYANAGA Aiko Courtesy Mizuma Art Gallery

【宮永愛子・参考作品(本展覧会では展示されていません。)】
宮永愛子 ≪waiting for awakening -clock-≫ 2011年
ナフタリン、ミクストメディア
© MIYANAGA Aiko Courtesy Mizuma Art Gallery


※サムネイル画像:
【宮永愛子・参考作品(本展覧会では展示されていません。)】
宮永愛子 ≪ポスト -景色≫ 2010年
ポスト、ナフタリン、樹脂、ミクストメディア photo: Didier Fontan, Patrick Ecoutin
© MIYANAGA Aiko Courtesy Mizuma Art Gallery

  宮永愛子が作り出すナフタリンのオブジェと記憶というのは似ているのではないだろうか。記憶は経験した瞬間から時間とともに移ろい忘却の一途をたどるが、それは消失するのではなく、新しい経験値として蓄積され個人の趣味嗜好や価値観や人格の形成に影響をおよぼす。ナフタリンのオブジェも同様に時間とともに昇華するがまた再結晶し新たなかたちへとその姿を変えていく。
  今回の展覧会「なかそら-空中空-」では、4つのセクションで構成された会場に6つの作品群が展示される。私は作品を通してあるプロセスをたどることとなった。

①『なかそら-透き間-』(2012)
  展示の導入では、仄暗い空間に長さ18mの透明ケースが配置され、日用品にかたどられたナフタリンのオブジェがパズルのピースとともに白く浮かび上がる。筆記用具や辞書、お弁当箱、ぬいぐるみなどのオブジェはすでに朽ちはじめ、ケースの内側に昇華したナフタリンが再結晶して張りつき微細な光の破片と化している。
  パズルのピースを当てはめるように、見慣れた日用品のオブジェによって浮かびあがる記憶の断片の所在を探す。美しく儚い、そして戻ることのないゆるやかな時間の流れがそこにはあり、ケースの中にはオブジェとともに思い出が封印されているようだ。記憶も時間の経過の中で少しずつ薄れていくがけっして無くなるのではない。

②『なかそら-はしご-』(2012)
  『なかそら-透き間-』の隣では、天井から床までを垂直に貫く透明パイプの中に、糸で作られたはしごが一本吊るされている。そこでも時間の経過によって再結晶化したナフタリンがはしごに付着する。はしごは記憶の所在のさらにその下へと、深層心理の中へと導いていく。

③『なかそら-waiting for awakening-』(2012)  
次にあったのは、立方体の樹脂の中に原寸大のナフタリンの椅子が封じ込められたものだ。その足元に貼られたシールをはがせば作品は呼吸をはじめて、時間とともに昇華し、かたちがなくなっていくというものだ。樹脂の中に幽閉され眠りの中で覚醒の時を待つ作品である。
  はしごをつたい降り深層心理の入口に置かれた眠りの椅子に座るのはどんな人物か?  傷つき悲しい目をしたインナーチャイルドか、待ちくたびれ疲れ果ててしまった老人なのか、けっして誰にも見せることのない表情をした自分の姿かもしれない。タイトルになぞらえれば目覚めを待つという意味だが、その時とはいったいいつなのか。

④『なかそら-空中空-』(2012)/
  さらに進むと、広大な暗室に柱が木立のように立ち並び、そこには蝶をかたどったナフタリンのオブジェを標本のごとく透明ケースに入れたものとはしごが配されていた。無数の蝶が暗闇の中で発光体のように白く浮かび上がるが、なかにはすでに昇華がすすみ片方の羽がちぎれてしまったものもある。その幻想的な空間はまるで深くて暗い深層心理の中のようだ。白く浮かび上がる蝶のオブジェは心の奥深くしまいこんだ大切な記憶の象徴、思い出すことすらなかった遠い過去、朽ちていく思い出。大切にしていたものはなんだったのか、失ってはいけないものはなんだったのか、自分に問いかけてみる[fig.1]。

⑤『なかそら-景色のはじまり-』(2012)
  先ほどの暗室を後にすると、一気に視界が開け吹き抜けの明るい空間に抜け出る。そこには金木犀の剪定葉の葉脈だけを取り出し貼り合わせて作られた全長33mのレース地が、天井から床へと流れる川のように波打ち広がる。レース地の模様に惹かれて近寄ると繊細な葉脈の網目までがはっきりと見てとれ、一枚の葉は赤ん坊の手の平ほどの小さなものであることがわかる。時間をさかのぼればそれは一枚の葉からはじまり一枚ずつ丁寧に紡がれてきたものだ。一つ一つの記憶をさかのぼり記憶の川の源流をたどっていくと、自分の今まで歩いてきた道筋がはっきりとしてくる。そこには父や母、さらには祖父母へとつながる道があり、時間を越え脈々と流れる命が確かにある。自分の生まれてきた意味を知り、存在の意味に気づけば、そこから新しい景色がはじまっていく[fig.2]。

⑥『なかそら-20リットルの海-』(2012)
  その隣には、大きなぽってりとしたかたちの20リットルのガラス瓶と糸が置かれている。国立国際美術館のすぐ脇を流れる堂島川の海水を瓶に汲み上げ蒸発させ、その時に生じた塩の結晶が糸には付着しているのだ。そういえば、人が一生で流す涙の量は20リットル※注1という話を聞いたことがある。人は泣きながら生まれてきて、一生の中でどれだけの涙を流し、またどれだけの涙をこらえるのだろう。涙がとまったら、歩き出してみようか・・・。


  今回の宮永愛子の展覧会「なかそら-空中空-」の6つの作品群と会場構成を「①認識→②探求→③問題意識→④問いかけ→⑤気づき・つながり→⑥開放」と見ると、人の心の成長や問題解決の心理的なプロセスになぞらえることができるといえよう。導入分の薄暗い展示室にはじまり、日用品をかたどったナフタリンのオブジェと記憶のなぞらえ、作品の移ろいや儚さのイメージは人を内省的な方向へと導く。はしごや樹脂の中に封じ込められた原寸大の無人の椅子は探求や自分との向き合いをうながしていく。4つめの蝶の暗室は自分との対話の場面である。暗さの効果もあって、普段はあまり意識しないことが浮かぶかもしれない。5つめの明るく広い空間への移動によって、視界が開け気持ちの上でも開放感が生じる。それまでの自分との対話が深いほど自分自身とも深くつながり、結果外界とのつながりもより感じられるのである。そして20リットルの瓶は、感情が解放され涙となって流れていく象徴となる。
  日常では、自分が何をすべきか、相手から何を求められているかに焦点を合わせることが多く、自分が本当はどうしたいかなどは二の次になりやすい。自分自身の本音とじっくり向き合う機会は以外に少ないのである。作品との対面は多少なりとも自分と向きあうことにもつながるのではないだろうか。展覧会「なかそら-空中空-」に足を運んだ鑑賞者が何かしら感情を呼び起こされるのは、作品の移ろいや儚さのイメージとともに、会場構成の巧さにもよるのであろう。

 


脚注
注1 ロート製薬ウェブサイトより http://www.rclub2.rohto.co.jp/clinic/dryeye/namida.htm
1日分の涙量0.5~1㎖✖365日✖80年=14.6~29.2ℓ(20ℓ説)
人が一生で流す涙の量は65ℓという説もある。


参照展覧会
宮永愛子:なかそら-空中空-
会期:2012年10月13日(土)~12月24日(月・休)
会場:国立国際美術館
Last Updated on October 20 2015
 

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