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visible and invisible:mixed media+painting
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 6月 07日

唐仁原希≪頑張ってはいるんだけれども。≫2009年 | 油彩/キャンバス、27.3×22.0cm | copyright(c) Nozomi TOJINBARA

岡山愛美 ≪milk pool≫2009年|ミクストメディア | copyright(c) Masami OKAYAMA

visible and invisible の後編として、ミクストメディアと絵画によるグループショーをご案内いたします。 絵画では、京都市立芸術大学大学院生の唐仁原希(とうじんばら・のぞみ)、この春成安造形大学を卒業し現在大分県で制作する後藤真依(ごとう・まい)、名古屋芸術大学大学院生の宮崎浩太(みやざき・こうた)が出展します。唐仁原は、作品に登場する動物や動物と融合した少女たちを、本人の心に住み続ける少女の頃の自分であると説明します。描かれた者たちは作者の複雑な心の記憶装置であるかのように、さまざまな姿を寓意的に展開します。後藤は「何かの存在を確信してしまうような強い感覚」を、少年少女の瞳の表現に託します。が、彼らの瞳には何も映らず、半分開いた口元からも何も具体的なメッセージが発せられる気配はありません。宮崎は、UFO シリーズにつづくUMA シリーズの油彩数10点により空間を構成します。UMA とはUnidentified Mysterious Animal の頭文字をとった、日本人による造語といわれ、英語ではCryptid です。「存在するとははっきりと言い切れないが、実際に存在して欲しいという期待感。そんな中からイメージされた物体には人間の様々なメッセージが隠されている気がします。」と宮崎は言います。それは、人が不可視な領域を絵画に託してきたことを象徴的に示しているように思えます。唐仁原・後藤・宮崎は、想像や伝聞や心象など、探索の方向は異なりますが、不確実/不可視である事象を表現する意味において、絵画を選択する理由を共有しているのではないでしょうか。

映像を用いた作品では、この春京都精華大学大学院修了の岡山愛美(おかやま・まなみ)、京都市立芸術大学博士課程在籍の八木良太(やぎ・りょうた)。岡山は、これまで小さな立体や描画などの実体と映像を重ね、認知できるそれぞれの像が緊密な層を織りなすかのような作品を制作してきました。今回は、展示会場と倉庫の間に設置するブラインドに映像を投影します。岡山にとって、「ブラインドは、内と外(光)とを隔てる曖昧な境界(ボーダー)としてのモチーフ」です。八木は、多様な表現方法によって知覚の交換を試み、すでに方々で活躍中の作家です。今回、八木は時間をモチーフに3作品を出展します。内の1点について「世界の輪郭は認識によって作られる」と語り、本展の可視/不可視というテーマに関連して、「見えないものは見ようとするのに、聞こえないものは聞こうとしない。」と言及します。京都市立芸術大学で広告を専攻した柴田精一(しばた・せいいち)と待場崇生(まちば・たかお)は、空間に対して異なる提示をします。柴田は、自作の<色紙>を切り抜いて大量の<切り紙>をつくり、それらを数枚ずつ重ねて1つの形にしたものを壁に32組展示します。<切り紙>1枚ずつは、柴田の決めたルールにそって出来上がっていきますが、抽象的な色と形の標本ともいうべき紙の集合体は、柴田の言う<偶然>によって成立しています。柴田によると<偶然>とは、切り紙を拡げたときに発見する形と、切り紙と切り紙の組み合わせに起こります。<偶然>は、柴田によって<感じ>とも言い換えられ、彼にとって美術とは<概念化できない感じを視覚化すること>です。

待場は、昨年の個展において<内側のある立体>をつくり、内部に放つ色彩の反射によって、何も無いはずの空隙に重量や容積を感じさせました。今回、展示室pfs の磨りガラスを透過する自然光を条件として待場作品のみを展示し、個展の続編ともいうべき提示を試みます。

グループショーvisible and invisible では、人が美術に託してきた「不可視な事象を表すこと」を考える機会にしたいと思いました。また、私たちをとりまくさまざまなメディアは大量の視覚情報を与えてくれますが、それらは本当に「見る」体験であるのかどうか。美術が持つ力のひとつである「見る」ことを知覚全域に行き渡らすこと。そのようなたいへん原初的な考えを導いてくれる若手作家の提示の場としました。

※全文提供: MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/w

最終更新 2009年 6月 13日
 

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