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イグノア・ユア・パースペクティブ15 -ノヴァーリス「青い花」について-
展覧会
執筆: カロンズネット編集3   
公開日: 2012年 10月 12日

 

拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。  児玉画廊|東京では10月6日(土)より11月17日(土)まで、梶原航平、高石晃、鷹取雅一、松嶋由香利によるグループショーignore your perspective 15 -ノヴァーリス「青い花」について- を下記の通り開催する運びとなりました。本展では、ドイツ・ロマン主義の作家ノヴァーリス(1772年-1801年)による最晩年の未完作「青い花」(1802年 / 原題: Heinrich von Ofterdingen)に主題を取り、具象的な平面作品をにおいてそれぞれの独自性をもって突出した4名のアーティストの世界観を共振させます。

「...すると花はつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐん伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、中にほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。」

「青い花」は、青年ハインリヒがある夜見た夢、青い花の中に美しい少女の顔が浮かぶというたった一つのイメージに心を掴まれ、突き動かされるように旅に出るところから始まる物語です。全編を通じて、「青い花」という、理想的な愛や詩情のメタファーによって物語は支えられて、夢や詩、歌が作中の現実と交錯するように語られ、読み手は作者と主人公の詩的体験に追従するように、自ずとその想像力を開き、その時々に語られ詠われる様々な情景に心を預けることになります。時に、詩や歌の奇跡的な現象を、あるいは地下鉱脈の深遠な世界との交感を描き、時間と空間を度外視した空想世界との境界が物語の進展と共に次第に曖昧になっていき、そして未完のまま閉じられるのです。  この小説の構想(1800年)において、まず始めに詩(poesy)について「世界を観察すること、それはちょうど大きな心情を観察するがごとし-宇宙の自意識」とノヴァーリスが述べているように、芸術的な創作活動が何か超越的なものとの交感に由来する、と見るのはおそらく間違ってはいないであろうし、それは今回の4名の作家にも共通するものです。  梶原は「走馬灯現象の空気を纏わせる」と作家が標榜するように、現実とも夢とも判別する余地もない程瞬間的に生じたイメージを投げ打つようなストロークでキャンバスに捉えます。過去の記憶にある現実の景色と、妄想の風景とが等価値に入り交じり、非現実的な情景描写を生んでいます。高石は、まるで不条理な悪夢でも見るかのような画面上の混沌としたイメージの交錯の中に、イマジネーションの広がりに呼応して自らの体までもが散逸しあるいは埋没していくような感覚を忍ばせ、そのざわつくような感覚が観る側にも生々しく伝播します。鷹取は「絵画」そのものに対するシニカルな思考を隠すことなく、時に芸術のスノビズムを揶揄するように、戯けたようなイメージを思いもかけない手法で描いてみせ、わざと鑑賞しづらいインスタレーションや、絵画の範疇を超えてしまうようなプレゼンテーションによって観る者に圧迫感を与えます。松嶋は、故意に装飾性や寓意性を誇張した絵画や、恐怖や嫌悪感を可愛らしさの中に隠して描くなど、作品の本来的な物語性や主題とは別に、特殊な技法や素材を駆使することによって示唆されるメタ的表現がダブルミーニングとなるような、2つあるいはそれ以上の摂理が混在する絵画を制作しています。このように、彼らの作品は、いずれも自らの中にある固定観念や単純なイマジネーションを打破し、あるいは突発的に飛躍させるようなプロセスを経ています。  こうした飛躍的なイメージの転変は、「青い花」の中で主人公ハインリヒが常にその詩と夢想のなかで繰り返していることでもあります。物語の中でその繰り返される断片的なイメージの転変は次第に積み重なって、ハインリヒの内面の世界を読み手の心の中に形作りやがて一つの総体を成しつつあるように感じられます。今展覧会においても、4名が各々が持つそのあまりに飛躍的なイメージを共振させることによって、細い糸一つでも繋がれば、それは加速度的に新たな世界を我々に与えてくれるのではないかという大きな期待を寄せずにはおれません。

「はてしない変身のうちに歌の神秘な力は、この世でぼくらにあいさつをおくる」 (「青い花」冒頭献詩より)

敬具
2012年8月
児玉画廊 小林 健


全文提供:児玉画廊 | 東京
会期:2012年10月6日(土)~2012年11月17日(土)
時間:11:00 - 19:00
休日:日・月・祝
会場:児玉画廊 | 東京
最終更新 2012年 10月 06日
 

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