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足田メロウ:風と景色〜Planetica#4〜
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 5月 26日

copyright(c) Mellow ASHIDA / Courtesy of neutron tokyo

「絵描き」と言うのはこの男の様に、それが「業(カルマ)」であるかのごとく絵を描くことによって生き、喜びも苦しみも絵と共にあり、良い時も悪い時も周りは絵を描くことを求め、過酷な道のりを歩ませることを厭わない存在を言うのであろう。現代美術などとちっぽけなフィールドの中だけの話ではない。彼の絵は既に出版や商品開発にも多く用いられ、京都では知る人ぞ知る存在であるのだが、ようやく東京での発表の機会に辿り着いたことを、まずは素直に喜びたい。私は彼とは同年齢であり、気づけば付き合いも長くなってきただけでなく、彼の浮沈も見て来た一人のファンとして、彼の絵がもっと世の中に必要とされるはずだと信じてきた。先に言っておくが、彼の絵に屁理屈は存在しない。詰まらない解釈も無用である。必要なのは子供の様に真っすぐな心で絵の前に立つ余裕だけであって、もしそれがあまり持てなかったとしても、彼の絵がそう仕向けてくれるであろう。足田メロウの絵には、人間の普遍的な強さと弱さ、在るべき喜怒哀楽、等身大のリアリズムと大きなファンタジーが渦巻いている。その吸引力に身を任せれば自然と、誰だって彼の絵を好きにならずにはいられない。

とはいえ少し彼の説明をしておかなければならない。足田メロウは滋賀県の陶芸を生業とする家に生まれ、自然とモノを作る、表現することを志す環境に恵まれた。物心ついて京都に出て以降はいわゆる町のアートシーンの中でメキメキと頭角を現し、絵画だけでなく音楽や詩、舞踊、演劇、映像などのあらゆる表現者達と化学反応を起こしながら、数々のライブパフォーマンスやイベントプロデュースを手がけ、なお一方では自身の個展やコラボレーションなどの発表を精力的にこなして来た。京都は芸大や美大の多い町であるが、彼はそういったものを経由せず、純粋に町の中に、人の中に身を置いて、絵を描いて、ここまで生きて来た人間である。そのシンパシーは広がり続け、彼を慕う仲間やファンも多い。京都の美術系出版社「青幻舎」からの詩画集やポストカードブックも好評で、その出版は彼の名をさらに広める契機となった。・・・こう書けば作家の歩みは順風満帆に思えるかもしれないが、無論、そんなに簡単に事は運ばない。彼の絵の変遷を見ればその苦闘や試行錯誤の様子は明らかだし、常に絵は動き続け、一所に留まる事は無い。それはつまり、商業的な仕事だけでは彼の創作意欲は満たされないことを意味し、一方で多様な制作を総括し、系統立てるのも至難の技と言えるのだ。

この誌面ではとても書ききれないが、彼の振り子の幅は大きい。技法においてもキャンバスにアクリルを用いて描く「絵画」としての領域と、イラストボードやパネルを支持体として紙にさらさらと描くイラストレーションとしての作風は明らかに違いを見せるが、さりとて本質的には足田メロウの作品であることは非の打ち所がなく、明らかである。一様でないこと、しかし誰が見てもメロウ作品であること。この二つを満たすことは並大抵の努力では実現出来ない事だが、彼はそのバランスと、「良い意味で期待を裏切り続けること」に天才的に長けている。男性的なパワーと女性的な繊細さ。時に交互に現れたかと思えば、一つの絵の中に共存したりもする。そして、彼の描くモチーフは決して多くは無いのだが、「人物」「家」「動物」「空」「植物」といった根源的な存在が、色や姿形を変えつつも、常に欠かさず絵の中に立ち現れ、こちらは「久しぶり!」とも「初めまして」とも言えそうな、不思議な感覚に陥る。既知と未知の融合。それは画家の中で一片の矛盾もなく生まれ続ける現象だからこそ起こりうる事態であって、決して狙って出来る事ではない。

その足田メロウの本質的、究極的な制作シリーズと言えるのが、昨年から京都で継続的に発表を続けて来た、「Planetica」である。この壮大な叙事詩であり世界の広がりは、未だ完結も総括も許されない。次々に見せられる世界の一端は、永遠の様であり一瞬のまばたきで消えそうにも見える。今年、東京の夏空に現れる「惑星儀」が映すのは、世代を超えた夢とロマンの物語である。そして画家にとっても私達にとっても、終わらすことの出来ない大切なストーリーでもある。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 7月 15日
 

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