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中比良真子:here, there
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 5月 25日

copyright(c) Masako NAKAHIRA / Courtesy of neutron tokyo

フィクションとノンフィクションという観点から中比良真子の作品制作を見ると、まさにその境界線の上にまたがって作品が誕生し、存在し続けていると感じる事ができる。中比良はいくつかのテーマ毎にシリーズとしての作品を作り出しているが、そのほとんどは実際に自分が撮影した写真を基に構図やディテールが描き起こされ、時に写実的と評されることも少なくないので、そういう意味ではノンフィクションの領域が確かに存在する。しかし一方では、作家は写真に映っている事象をそのままに油絵に再現しようとしている訳ではなく、そこに絵画というメディアならではの新たなイメージの創造(想像)性が発揮されているのだから、まさにそれはフィクションの領域である。およそ多くの絵画作家の制作においてこの両者のバランスは99:1であれその逆であれ、どちらかに偏ることはあってもイコールであることは稀であると思うのだが、中比良に関して言えばそれが丁度50:50の地点、つまり境界線上に制作の立ち位置が存在すると思わずにはいられない。

なぜなら、技法が写真から起こされる絵画だからと言うのではなく、中比良自身が世の中において半分は実存社会(環境)に身を置き、もう半分はその環境の中から立ち上がる新たな像を見つけようと日々追いかけ、作品にするという仮想の環境に置かれていると見えることが由来する。あくまで私観ではあるのだが。そう感じさせるに足りるほど、絵画の中に実存も仮想も見事に描き分けられ、あるいは「描かれない」ことによってバランスが取られ、私達鑑賞者に現在進行形の事象である前提をまずはしっかりと印象づけつつも、同時にそこに潜む(日常的な)「揺らぎ」や瞬間的(であり永遠のものとしての)美しさを、絶えず見出そうとする強い意思が一貫して見受けられるからである。

描かれるモチーフに水がよく登場する。今回の一連のシリーズも水に風景が映り込んだ光景から生まれた印象がテーマなのであるが、以前はプールやお風呂の水の中(あるいは表層)、京都の名所・鴨川に並ぶカップルの群像(ただし川は描かれていない)から、2006年にneutronで発表された大作「bird eyes」においても、まさに鳥瞰図と言えるスケールの大きい光景に、確かに川が存在し、鑑賞者の視点を緩やかに誘導するかの様であった。つまり、こじつけではなく、中比良の作品において「水」は主役としても脇役としても欠かせない存在であり、前回京都展(2008年8月)から今回に至る連作「The world turns over」のように、映り込みという新しい試みに至る前から、あらゆるテーマにおいて水は既に数多く登場してきたのである。

一方、花というモチーフもまた、同様によく現れる。一番それが主役として扱われたのは2004年から2005年にかけてのシリーズ「blooming」であろう。リアルに描かれた女性の顔のあちこちから、朝顔やハイビスカスなど様々な花が生えているという、印象の強い作品だったので、これを機に中比良真子を知った人も多いであろう。風景とは違って人物像としての視覚的影響が強いために賛否両論あったが、本質的にそこに描かれていた「フィクションとノンフィクションの境界線」にまたがるモデルの表情は、この世のものともつかぬ、実に恍惚と、穏やかでポジティブなものであったことを忘れてはならない。それはモデルの表情と言うより、作家自身の(願望としての)それに他ならない。

私達はつい目前の事象にとらわれがちであるが、中比良作品を目にするとき、本当に描こうとされているものは、そこに描かれているとは限らない事を知る必要がある。それは「見る」という能動的な行為が「見える」「見せられる」という受動的な行為に成り下がった現代において、多少の勇気を必要とすることかも知れぬが、作家が「描く」「描かない」ことによってフィクションとノンフィクションの境に現出させた光景には、視覚的な情報だけでは届かない像が潜み、時間が流れ、そして永遠に留まっている。水に映っているものが真実なのか、あるいは単色に塗りつぶされた影が実存なのか、あるいは両方とも架空の出来事として片付けるのか。答えは両者の境界線に立ってみれば分かるのだろうか。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 7月 15日
 

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