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水・火・大地 創造の源を求めて
レビュー
執筆: 石井 香絵   
公開日: 2011年 11月 24日

[fig.1] (左)千住博《四季瀧図 春》
2000|水墨、胡粉、麻紙|182.0x425.0cm
財団法人国際文化カレッジ蔵
(右)千住博《四季瀧図 夏》
2000|水墨、胡粉、麻紙|182.0x510.0cm
財団法人国際文化カレッジ蔵
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.2] 杉本博司《The First Seven Days》
1990-2003|7点組|各41.9x54.4cm|豊田市美術館寄託
© Hiroshi Sugimoto/Courtesy of Gallery Koyanagi
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.3] ディヴィッド・ナッシュ《捻箱》
1982|ミズナラ|127.0x137.0x131.0cm|栃木県立美術館蔵
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.4]アンディー・ゴールズワージー
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.5]リチャード・ロング《スイス花崗岩の環》
1985|花崗岩|直径540cm|広島市現代美術館蔵
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.6] 蔡國強《延長》
1994|火薬、紙、十二曲屏風装|236.0×1564.8cm
世田谷美術館蔵
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.7] 遠藤利克《空洞説2011-KUMAMOTO》2008-2011
木、水、鉄、鏡、油土、循環装置、(火)|約1100cm |作家蔵
熊本市現代美術館での展示風景

[fig.8] 淺井裕介《泥絵・土のこだま 阿蘇-天草》
熊本城周辺の土4種、阿蘇神社の土
阿蘇の山の周辺の土2種、天草の土7種
幣立神宮周辺の土2種、秋吉台国際芸術村裏山の土1種
湧水、紙、マスキングテープ|360.0×1364.7cm
熊本市現代美術館での展示風景

   九州新幹線全線開業を記念して、熊本市現代美術館で意欲的な展覧会が開催された。この地が誇る広大で豊かな自然環境をテーマに、国内外で活躍する作家八人の作品を集めた「水・火・大地-創造の源を求めて」展である。「水」は熊本の豊富な地下水、「火」は阿蘇山や不知火海の火※1、「大地」は装飾古墳などの遺跡や天然の資源を象徴している。出品作家は国際的な活動を展開する杉本博司、千住博、遠藤利克、蔡國強、近年注目される若手の淺井裕介、イギリスの代表的な自然派として知られるリチャード・ロング、ディヴィッド・ナッシュ、アンディ・ゴールズワージーと豪華な顔ぶれ。彼らの作品が東京、愛知、広島、鹿児島など全国各地の美術館から集結している。旧作が大半ではあったが、普段なかなか観ることのできない作品が揃っており、県民だけでなく他県や都心に住む者にとっても貴重な展示内容となっていた。

   自然をテーマにした展覧会の場合、注目したいのは作り手の自然に対する姿勢や身の置き方である。作家が対象をどう捉えているか知ることは、作品が提示する自然の新たな一側面への理解を深めるだけでなく、作品そのものが持つ根本的な性格をも明るみにする。自然との関係性という観点から観た時、今回の展示で際立って感じられたのは、共通点よりもむしろ作家ごとの性格の違いだった。

   「水」あるいは不知火海に関連した展示が、千住博の《四季瀧図》、《フォーリングカラー》と、杉本博司の海景シリーズで知られる《The First Seven Days》である。まず類似点として挙げられるのは、両者とも表現の歴史や媒体の性質を追求していることだ。
   たとえば千住博の描く瀧は自然の瀧の再現でありながら、絵具を上から下に流すことで一つの瀧を成しており、媒体自体が表現の対象となっている。制作の際は詩歌をはじめとする日本の文化が多くのヒントになったというが、本作は何よりも、千住自身が岩絵具の美しさに惹かれて美術の道を志したという、当初の動機を端的に表しているようで興味深い※2。自然の美しさを画材の美しさに重ねあわせた作例と言えるだろう。
    杉本博司の《The First Seven Days》も写真という媒体に問題意識が向けられている。空と海を分かつ水平線の、いつどこでも有りうるような普遍性は、被写体のイメージや情報の操作を可能とする写真の編集的性格を顕にしている。本作で杉本は、人類が初めて自己を認識した頃見た海は外見上今とさほど変わらないものと捉え、世界中で撮影した七枚の水平線を創世記の七日間に置き換える※3。写真から特定の時間と場所を無くすことで、逆に海本来が持つ時空間的な広がりを示しているかのようだ。媒体自体に言及している点では千住と共通しているが、千住の行為が画材の効果をそのまま見せるという積極的な表現である一方、杉本はある時間と場所を切り出すという写真の特性を無化することで対象に接近する、ある意味消極的な表現である点に違いを見ることができる。

   「大地」に関連したリチャード・ロング、ディヴィッド・ナッシュ、アンディ・ゴールズワージーによる展示作品では、よりいっそう自然に密着した表現が見られる。いずれもイギリス出身の作家で木や石などの素材をそのまま使用しており、特にナッシュとゴールズワージーは森の中で制作するスタイルも類似している。しかしこれらの作家の場合も類似性よりは、やはりそれぞれの性格の違いの方が印象的であった。
   ディヴィッド・ナッシュは制作時に、素材となるものの周囲の環境や文化に寄り添い、自然の作用のままに作品を同化させていく手法をとっている。今回の出品作は1982年の奥日光と、1993年の北海道音威子府で滞在制作されたもので、ミズナラや樺の木を用いた立体作品に制作時の絵コンテ、写真パネルが並ぶ。特に《雪窯》や《川のトンネル》の様子など、奥日光の森をそのまま展示空間とした当時の写真パネルからは、作品を自然の一部としてあるべき場所に据え置こうとする態度がより分かりやすく提示されている。

   一方アンディ・ゴールズワージーも森の素材を用いているが、ゴールズワージーの場合は自然と同化させるのではなく、そこからある形や色を抽出することに関心が向けられているようだ。実際に川辺の岩に真っ赤な楓の葉を一面に貼りつけた《赤いカエデの葉を水でつける、晴れ 大内山村 1991年11月19日》や、石を色ごとにグラデーション状に配置した《穴の周囲の小石(1987.12.7 三重県紀伊長島町)》、葉を集め松葉で縫合し、一部葉脈を残して円形に切り取った《葉脈の間を裂き松葉で縫合した葉(1987年12月20日 福井県和泉村)》には、自然の中にある色彩や模様が驚く程鮮やかな姿で現れている。

   リチャード・ロングの場合は自然に対する興味の他に、自身の身体に意識が向けられている点で他作家と異なる。ロングにとっては大地、特に辺境の地を歩き記録すること自体が表現の目的であり、作品は自身の行為の軌跡でもある。石が円形に並べられた《スイス花崗岩の環》や《ニューリンの円》はミニマル彫刻のようだが、どちらもその土地を歩いた記録として拾われ、並べられた結果なのだ。

   「火」を用いた作品ではより抽象的で広大な表現が試みられている。火薬を使う作家として知られる蔡國強は、爆発の一瞬に時空を超えた宇宙との対話を目指す。導火線の爆発痕を用いた出品作《延長》は「万里の長城を一万メートル延長するプロジェクト」の関連作品として奈良県で制作されたもの。傍らにはモニターが置かれ、導火線に火をつける当時の様子が上映されている。
   遠藤利克は炎そのもの、または焼くという行為に特別な時間を見出す。特に葬礼としての儀式性が強く、《空洞説2011-KUMAMOTO》の焼けて黒焦げになった木の舟は、創造物でありながら弔われ、彼岸へ向かう舟のようにも見える。今回は熊本の豊富な地下水に関連させて、奥に衝立に隠された水槽が置かれ、焼けた舟と見えない水の音が対照的な効果を成していた。
   蔡も遠藤も「火」に万物を融合させる聖性を認めているが、蔡は爆発のエネルギーに、遠藤は火を放つ行為にその発露を求めたため、結果として作品の性格が大きく違っている。

   そして本展の開催にあたって作られた新作が、この遠藤の作品の一部と、淺井裕介の全ての展示作品である。泥を絵具に使うことで近年注目される淺井は、今回新たに阿蘇、天草、熊本城で土を採取し絵具を作り、期間中会場の壁に公開制作を行った。壁いっぱいに動植物を描いた《泥絵・土のこだま 阿蘇-天草》はタイトル通り土どうしが響き合っているかのように賑やかで、自然の土のみを使っているとは思えない程カラフルだ。熊本の大地そのものである淺井の壁画は、本展の企画内容に最も合致した記念的な作品と言えるだろう。
   しかし淺井は同じ絵画の出品者である千住や、ナッシュなどの「大地」の作家のように、画材や自然というものを表現の中心に置いていないように思える。淺井と自然とはむしろ、彼のキャンバスを抜けだしてどこまでも広がっていきそうな作風に見られるが如く、描くことを中心にゆるやかに結びついているように感じられる。淺井の作画上の特徴は、あらかじめ完成像を決めず手の動くままに画面を埋め尽くし、完成後は消し去って文字通りもとの土に戻してしまうことにあり、描くこと自体が既に自然の作用に似ているからだ。画材も存在も自然の一部のような淺井の作品は、展示空間の最後の区画を心地よく満たしていた。

   東日本大震災の直後に開催された今回の展覧会では、思いがけず観客から「癒された」という声を聞くことも多かったという※4。しかし、現実を考えれば癒されてばかりもいられない。ある場所やイメージが破壊されることは、特に本展のような自然が大きく関係する作品群の場合、そのまま表現や芸術の捉え方を変えてしまう事態にもつながるからだ。たとえば蔡國強が1994年にいわき市の近海で行った「地平線プロジェクト」※5などは、今や想起する際、必ず大震災とその後の原発事故の記憶が伴ってしまうことは否めない。本作は、制作時の意図と関係なく、見なれた自然が全く別のものと化してしまったことを痛感させる遺憾な作例といえよう。
   しかしそれでもなお、この展覧会が多くの人に癒しを与えたという事実は重要である。観客はおそらく展示を通して、作家が個々のやり方で自然と向き合い、表現を追求する真摯な姿勢を感じ取っていたのだろう。圧倒的な自然の脅威や汚染による不安や罪悪感とともに今生きるなかで、救われる瞬間があるとすれば、具体的な人物が見えない大きな出来事ではなく、一人一人が自然に働きかけ、新しくものを生み出す個人単位の営みに触れる時なのかもしれない。


脚注

※1 
「不知火」は旧暦8月1日(八朔)に八代海(不知火海)や有明海で見られる鬼火のこと。蜃気楼の一種。

※2 
千住博『美は時を超える 千住博の美術の授業Ⅱ』、光文社、2004年、pp89-116参照。

※3 
杉本博司『歴史の歴史』、六曜社、2004年、p20参照。

※4 
桜井武「巻頭言 水・火・大地展-耳を澄まし、目を凝らして見ること」『ART KISS LETTER vol.52』、熊本市現代美術館、2011年5月、p1参照。

※5 
「地平線プロジェクト」とは蔡が94年にいわき市立美術館での展覧会にあわせて同市に滞在し、地域住民とともに行ったプロジェクト。沖合いに5000メートルの導火線を引き、爆発の光によって地球の輪郭を描き出した。詳細は『蔡國強-環太平洋より-』(いわき市立美術館、2004年)を参照。


参照展覧会

九州新幹線全線開業記念事業「水・火・大地 創造の源を求めて」
会場:熊本市現代美術館
期間:2011年4月9日(土)-2011年6月12日(日)

最終更新 2015年 10月 20日
 

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