| EN |

岡崎 / 大西 / オブジェ [2]
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2011年 10月 01日

画像提供:MA2 Gallery

2人の展覧会は、大西伸明から岡崎和郎へのアプローチから始まった。
年代も制作コンセプトも全く異なる2人だが 互いの作品に惹き合いそしてこの[2]という展覧会が決定された。
昨年10月から2人のやり取りが始まり、一年を通した往還から作り上げてきた 2人の第1回目[2]という展覧会を是非観て頂きたい。

「2であること」の神秘
-林 浩平

今回の岡崎和郎+大西伸明の共同展示[2]においては、当然のことだが2という数字が重要なコンセプトを形成する。先ず作家ふたりによる共同展であることが関わっている。それに加えて、岡崎も大西もともに「型どり」の方法を意識的に用いてきた作家である。

岡崎の場合、たとえば瀧口修造の右手の人差し指を型どりして作られた〈瀧口修造――Arrow Finger〉に代表されるように、「型どり」という方法への自覚は歴然としている。型どりとは、ものの型をとってもうひとつのものを産むわけだから、そこには常に2の概念が介在する。2は複数のはじまりである。そこからOKAZAKI GIVEAWAYSとして大量生産のマルティプルを作品化する方法も導かれた。大西の場合、一見何の変哲もない脚立や椅子が置かれてあるだけの「kyatatsu」や「isu」だが、それらは皆、樹脂で型どられて加工された作品である。

ここで、「2であること」の不思議さ、神秘性について考えておきたい。私の専門である詩の世界の問題である。三好達治に「雪」と題した僅か二行からなる詩篇があるのはよく知られていよう。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

登場するのは、まだ幼い男の子と思われる太郎と次郎のふたりである。このふたりを兄弟とみなすか、それとも一般的な男子の名称とみなすか、そこは解釈の分かれるところだが、ここではこだわらない。ただ、ふたりである点がポイントだろう。三郎、四郎と言挙げする必要はないのである。深夜の雪は太郎を眠らせるようにしんしんと降り、そして次郎の眠る屋根にも降り積もる。そう表現されただけで、静寂さに包まれて雪のなかに幸福そうに眠る大勢の子どもたちのイメージが湧きあがる。このユートピアの時間は永遠に続くかのようだ。三好達治というと古典的な抒情詩人というイメージが強いだろうが、実はフランス語に精通しボードレールの詩篇やヴァレリーの詩論を訳している。フランス象徴詩の世界に深く親しんだのは間違いない。象徴主義は、永遠や無限といったものに憧れた。

あるいは、「合わせ鏡の無限廊下」という現象を思い起こしてもいい。鏡を二枚組み合わせると、そこに映る物象の像は延々と彼方に列なっていく。鏡に映る太郎は次郎の姿となり、さらにその向こうへ男の子の写像は増殖を続けてゆく。鏡面の空間は無限を表象するのである。こんなふうにして、「2であること」の神秘をまず確かめておこう。

続いて俎上に上げたいのは、岡崎と大西に共通する「型どり」の問題である。この問題に関しては、フランスの美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンに“LA RESSEMBLANCE PAR CONTACT”、「接触による類似」というタイトルの一書があって、これはいかにも刺激的な著作のようだ。だが原著は2008年にMinuit社から刊行されながら、現在まだ日本での訳書は出ていない。ただし幸いなことに、橋本一径の論文「〈指標(インデックス)〉から〈型どり〉へ」(「pg press」8号)が本書の内容を紹介しているので参照しよう。ディディ=ユベルマンは、ロザリンド・クラウスの重要な論稿「指標論」(『オリジナリティと反復』所収)を受ける恰好で、クラウスの「指標」概念を「型どり」として捉えなおそうとする。ここで思考の対象となるのは、マルセル・デュシャンである。デュシャンの「雌の葡萄の葉」が女性器を型どりしたものかどうか、という議論を踏まえながら、デュシャンの「レディ・メイド」と型どり作品とが比較考察される。そしてあのデュシャン特有の謎めいた概念「極薄(アンフラマンス)」がここでも鍵となるのである。

ディディ=ユベルマンはこう述べている。「同じ母型から出た二つのオブジェは、どれほど似ていても、隔たりという価値を、つまりは極薄の差異をあてがわれている。」岡崎や大西の型どり作品においても、このアンフラマンスの要素が重要だろう。

改めて、極薄、アンフラマンスとはなにか?ここはデュシャン本人の言葉を、死後に刊行された『デュシャン・ノート』から東野芳明の訳文で紹介しておこう。

「人が立ったばかりの座席のぬくもりはアンフラマンスである。」
「非常に近いところでの銃の発射音と標的上の弾痕の出現との間には、アンフラマンス状の分離がある。」
「他なる世界に移動するには、忘却がなければならない。その意味で、次元移動の蝶番であるアンフラマンスに似る。」

殊に最後の断章が気にかかる。アンフラマンスは「次元移動」の蝶番だという。母型と型どりされたものがふたつ並んで展示された作品において、ふたつの間の極薄の差異が「次元移動」を作品空間にもたらす、ということだろうか。本稿のはじめに「2であること」は永遠や無限につながる、と述べたのだが、アンフラマンス概念を導入することによって、岡崎と大西作品のコンセプトが、「次元移動」、換言すれば、無限への志向に結びついているのが照射されたのでなかろうか。

今回、岡崎はただ単純な型どり手法を示しただけではない。「見者の棒」や「文字・心」といった作品はいずれも、ふたつの大きさが違うのである。これは岡崎作品を型どりという固定観念で見ようとする観者への挑発でもあろう。また大西は「lovers lovers」のシリーズを出展するが、モチーフに注意したい。#4はクラッシュしたトルソであり、#12は腐蝕する角材である。いっぽうは、破壊され遺棄されたものが型どられている。いっぽうは、腐蝕が進行中のものである。ともに「型どり」という方法の固定化・惰性化に逆らって、作家自らが揺さぶりをかけた試みだろう。あるいは、「時間」の要素を新たに取りこもうという目論見なのか。いずれにせよ、作品が展示されるMA2GALLERYの空間に身を置いて、二人の作家の新しいチャレンジをこの眼で確かめるのがたのしみである。

全文提供: MA2 Gallery


会期: 2011年11月5日(土)~2011年12月4日(日)
会場: MA2 Gallery

最終更新 2011年 11月 05日
 

関連情報


| EN |