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齋藤周 展:春を兆す日
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 2月 17日

copyright(c) Shu SAITO / Courtesy of neutron tokyo

北海道は札幌に居住しているせいなのか、ここに紹介する齋藤周の絵画は白く澄んでいながら乾燥しており、朴訥(ぼくとつ)でありながら雄大である。まるで北の大地を表すような形容詞であるが、土地柄というものは確かに影響していると推測する。何も実際に絵の表面の湿度を計測したことはないが、木製パネルの上の事象は実に現代的にドライな事象が淡々と綴られている。にも関わらず、連結され・空間に浸食する彼のスタイルから見えて来る作品全体の印象はとても伸びやかで、感傷や記憶の想起といったウェットな要素を感じずにはいられない。現代性を多分に取り入れつつも一方で素朴で根源的な表現であり続けることこそ、この作家の特徴と言える。 

実に不思議なことに、齋藤周の絵画は一つのパネルだけで自立しつつも、多くは大小様々なそれらと連結することによってイメージを構成し、ある時は床に積み重ねられたり、ある時はそれと気づかぬ様な場所に展示されたりする。本質的に全てのパネル作品は絵画として成り立つのだが、一方では全体像を形成するパーツに過ぎないとも言える。さらに、作家はとりどりのパーツ(作品)を最終的に空間において構成するのであって、ディテールまで含む全体の配置を綿密に立てているとは限らない。つまり一つの絵がどこに置かれるかの運命は最後まで分からないのであり、作家がこれと決めた配置(インスタレーション)が金輪際の完成形とも限らない。パーツの組み合わせの可能性は無限であり、空間との結びつきもまた、多様であるはずなのだ。それらを決定する決め手となるのは、作家のその時点における考えや気持ち一つであろう。しかしながらどうなろうと、齋藤周の実現したいインスタレーション、全体像は大きくは変化しないであろう。

 展示構成自体がまるでコラージュのようだとも言えるが、作品一点一点を見ても同じ事が言える。柔らかな線描で表されるのは作家が日常的に目にした人々や出来事のワンシーンであり、それらが画面上にゆるやかに配置される。複数のモチーフが一つのパネルの上に描かれていたとしても、必ずしも直接的な結びつきを持たないことが多い。そしてアクリルの軽やかな塗りが部分的に施されることによって、画面上にリズムが生まれる。それらもまた、意味を持ちすぎない程度の存在であり、色調はあくまで爽やかに流れる音楽の様である。繰り返し登場する同じモチーフは、写真の複製のように「記憶」という要素を引き出し、現在進行形というよりは過去の出来事を想起させる。それがまさに感傷を生じさせる由縁なのかも知れないが、作家がどれほどの思い入れを持って、一つのモチーフを幾度も登場させているのかは、極めて個人的な思い入れの領域かも知れないし、単にお気に入りだという理由だけかもしれない。どちらであろうと、鑑賞者はどこかで見た事のあるような、特別でない風景に囲まれていることに次第に気づき、ある特定のメッセージとしてではなく、自分の記憶の中にも響くものがあるのではないかと、無意識に何かを探そうとするだろう。だからといって見つかるとは限らない。齋藤周の作品世界はそれだけでは満たされておらず、私達が探そうとするものは永遠に見つからないとも思える。そして矛盾するようだが、彼が描きたい/現出したいイメージと言うのは、そういった「永遠の不在」にこそ存在するのではないかと思う。

 目に映る色鮮やかな出来事、過ぎ去る時間。そして植物のように記憶の種は撒かれ、どこかの土地で花が開き、根を張り、また新しく発芽する。齋藤周が描くのは私達が旅立ち、出会い、獲得する記憶だけではない。いつの間にか失った感情や落っことした記憶もまた、彼の手によって人知れず花を咲かせているのではないだろうか。そう思う事は案外、幸せな事である。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 3月 25日
 

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