INTERMISSION PROJECT #01 梅津庸一「絵画説明会」 |
レビュー |
執筆: 桝田 倫広 |
公開日: 2011年 8月 09日 |
「絵画説明会」というシールが貼られたガラス戸越しに、私は会場の様子を覗いた[fig.1]。向いの壁面に三枚の絵画が掛かっている。中央の一枚は原子力安全・保安委員の某氏と思しき肖像画、両隣の二枚は抽象画だ(この二枚の抽象画は、それぞれ画家の荻野僚介と梅津の友人・東さんの作品とのちに判明する)[fig.2]。絵の前にはそれぞれマイクスタンドが立ち、絵に対してマイクが向けられているものの、コードはどこにも繋がっていない[fig.3]。これらの手前にはパイプ椅子が並び置かれている。俯きがちの人物がひとり、こちらに背を向けて椅子に座っている。萎びた観葉植物がところどころに置かれ、会場の白々しさをかき立てる[fig.4]。 ガラス戸のノブに手を掛けた。だが、鍵が掛かっていて開かない。私が訝りながら立ち尽くしていると、開かずのドアを前に人々は「展示中じゃないようだ」と口々に言って、立ち去っていった[fig.5]。DMには詳しくは書いていなかった筈だが、パフォーマンスか何かのために会場は決められた時間だけ開くのだろうか。そう考えた私は一旦、その場を離れることにした。 その後しばらくして戻ってみたが、扉は相変わらず施錠されたままで中の様子にも変化がない。いや、それどころか変化が全くないことに気がついた。なぜなら会場の様子はおろか、椅子に座っている人物の姿勢や首の傾き具合さえ、まるで人形のように先程の姿と寸分違わないのだから。このとき初めて、ギャラリーの外壁に本来作品の隣に貼られるべきキャプションがあり、作品素材のひとつとして「ギャラリー ×1」と書かれていることに私は気がついた。なるほど、本展はこのギャラリー空間ごとひとつの作品として、もとより外から眺めるものだったのだ。 それでは梅津の企図した展覧会「絵画説明会」は、いったい何を説明してくれるのだろうか。私たちは通常、展示空間において作品を鑑賞するだけでなく、展示のコンセプトを読んだり、付せられたタイトルから意味を探ったり、時には作家本人から作品についての説明を受けたりして、ある作品が含む意味や意図をなんだか分かったような気になる。作品は、展覧会場の中で鑑賞者がそれを作品と認識することによって初めて、作品としての存在価値を与えられる。その意味で展示空間は、きわめて政治的な場と言えるだろう。このように捉えれば、展示空間への立ち入りを拒否するという仕立てを用いることで、梅津は展覧会場が持つ政治性を相対化させていると言える。記者会見場を模した閑散とした部屋や決して喋ることのない某氏の肖像画は、どれほど無為で論理的説明を欠いたものであったとしても、「会見を開いた」という事実のみが説明責任を果たした証左になってしまう政治状況への強烈なアイロニーとも読める。この展覧会もまた、仮に開催されていたことを誰にも気がつかれなかったとしても、梅津の展覧会歴には加算され、「公衆に作品を送り出している」という作家としての体面を取り繕う履歴となることだろう。 とはいえ展示空間が持つ政治性の可視化・相対化が、同展覧会における主眼であったとも思えない。なぜなら多くの人々が展示中と思わず素通りしたとしても、そして確かに扉は閉まっていたけれども、スポットライトに煌々と照らされた絵画はガラス戸越しから見られることを決して拒んではいなかった事実の方が、ここでは重要に思われるからだ。つまり絵画は何かを意味するためにでもなく、誰かのために存在するのでもなく、すなわち見る人に作品として認知され、何らかのメッセージを発するものとしてではなく、なによりもまず絵画という「もの」としてガラス戸の向こうに置かれていたのだ。このような絵画のあり方は、いかなる意味や解釈からも先立ちながら、絵画の自律といったモダニズム的な絵画のあり方とも関係がない単なる事実である。思えば梅津の絵画の特徴である、遠くから見てもなお視覚混合を起こさない点描技法は、壁に掛けられた肖像画が某氏と何の関係もない単なる絵具の集積によって生み出されたイメージでしかないことを、ガラス越しの遠巻きでも十分に明証していた。更に相互関係が見出せないため、無造作に並置されたように見える「東さん」と荻野僚介の作品もまた、描かれたモチーフの抽象性ともあいまって作品の無名性を高めている[fig.6]。すなわち彼の展示では、絵画の存在が安易な意味やメッセージに収斂されないように鑑賞者を展示空間から排除している。しかし、それでもやはり透明なガラスを通して私たちに開かれていたことを忘れてはならないだろう。このような迂遠だが明快で素っ気ない梅津の態度は、震災後、自己の無力感に苛まれ、美術に携わる私の存在価値―それは他者に開かれ共有されうるものではなく、それを偽装しながらあくまで自己肯定や弁護を行うためだけのもの―を意識的にせよ無意識的にせよ求めてしまった私には、とても痛快に感じられた。 参照展覧会 INTERMISSION PROJECT #01 梅津庸一「絵画説明会」 |
最終更新 2015年 10月 21日 |