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金理有:臨界点
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 2月 05日

ジャンルやカテゴリーというものは、常に生まれてくる未知の事物を追いかけるかのように、後から作られるものである。しかもそれらは、ひとしきり事物や現象のピークを迎えた頃にようやく誰かが名付けるものであって、それ以降にその名前ありきで物を作ることは、それを開拓した者のやってきたことと比べれば、評価に決定的な違いがあって然るべきである。プレスリーの後に「ロック」という名前が誕生し、セックス・ピストルズのあとに「パンク」が叫ばれ、「ヒップホップ」も「テクノ」も同様に、オリジネーター達が未知の音楽を作ろうと試行錯誤を凝らして誕生させた「シーン」が後に定着し、あたかも有って当然なもののように、以後はその枠組みが重要視される。なぜならそうすることによって人々は情報を整理しやすく、また「こうだ」という予備知識によって一種の安心感を得ることができ、作り手すら「俺たちはパンクだ」と名乗ればそれでパンクのスピリットを継承しているかのごとく、立ち振る舞う。それが本質的にどうであるかの前に、名前やカテゴリーが表現のさらなる探求を邪魔しているかのように。

 音楽だけではない。新しい表現は日々、あらゆるところで誕生する。既に確固たる領域が設定されているように見える分野でさえ、その不自由さを打ち壊さんとする若者達が、まさにハンマーを振り下ろそうと構えている。美術という(これもまた名付けられたジャンルだが)自由なはずの堅苦しい分野においても。

copy right(c) Riyu KIM / Courtesy of neutron tokyo

金理有はその名からもわかるように、韓国をルーツに持ち、日本語を話し、日本に住む一人の若者である。そして日本の古典芸術と言える陶芸を学び、そこに自分の鬱屈した思いをぶつけるかのごとく意欲的な制作を繰り返し、今注目を浴びている存在である。彼の前に立ちはだかる壁は、様々な領域を分断し、それぞれに動かし難い名前を与えている。例えば「陶芸」と言えば土を焼いて作る表現であり作品のことだと浮かぶが、それに「美術」と「工芸」の違いが潜んでいると知ると、途端にややこしいものに感じられる。陶芸に限らず、表現重視の「美術」と、用途が定まる「工芸」とでは確かに作り手の意識も全く異なるのであろうが、では同じ作家でも使い道の無いオブジェ作ったかと思えば、時に使い勝手の良い食器を見せたりもするのは、どういうことか?それを矛盾としてしまうなら、もはや作り手は何も生み出すことは出来なくなるであろう。土をこねて形を整えて、焼いて塗ってまた焼いて・・・という工程にそれほどの違いはない。あるのは完成形のちょっとした目的の違いだけで、作者は等しくそれらに愛情を注ぐはずだから。用途があればそれを用いるし、無ければ無いで眺めたり触ったりすれば良い。作品とは身近に感じて楽しめることが大事だし、大家のウン百万の皿にカレーを盛ったところで、それは所有する者の自由である。

 金理有のあまりにもインパクトの強い陶作品を見てどう扱おうとするか、それもまた決まりはない。彼もまた作り手として、用途のある/なしを明確に区別していない。あるのはただ文様の刻まれた、鉄のような硬質な輝きを放つ、異様な物体である。そこにまだ名前は無い・・・と、ここまで開き直って鑑賞できれば我々も楽しいのだが、現実には色々な概念が邪魔をする。作家も鑑賞者もその影響を等しく受けるのである。だからこそ、彼の試みに価値が生まれる。

 東京でほぼ初めての個展となる彼の作品によって、おそらくは多くの驚きや感嘆の声が上がるだろう。一方でこれは「・・・ではない」という否定的な声も聞かれるかも知れない。どちらにしろ、彼は既存の枠を壊そうとし、超えようと試みる。私達はただその姿に、羨望の眼差しと熱い声援を送れば良いのではないかと思う。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 3月 04日
 

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