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寺島みどり:見えていた風景-空-
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 1月 26日

Copy right(c) Midori TERASHIMA
Courtesy of neutron tokyo

2009年の寺島みどりから、目が離せない。この一連の展覧会は作家とギャラリーによる企画であると同時に、Gallery Den(手島美智子代表)とneutronの協力関係の上に成り立つものであり、大阪のGallery Den、東京のneutron tokyo、そして京都のneutronという三都市・三ギャラリーを巡るトリコロール・ツアーの様相を呈してもいる。

トリコロール(フランス語で三色(主にフランス国旗を指す)の意味)とはそれぞれの土地柄を表すだけでなく、そこで作品から(あるいは作品が)体験するであろう出来事も含んだ、三つの旅路の景色の意味でもある。

 寺島が自らの制作を「旅」と称するように、作品を作り上げる過程はもちろん、その作品が各地のギャラリーに辿り着き、初めてそこで人と出会い、また戻ってくるまでの出来事は皆、様々な「色」にも例えられよう。

寺島作品の一つの特徴が、作品によって異なる画面の「色」に在ると言えるが、それぞれのギャラリーの現場にもまた特色が存在する。寺島みどりと言う一人の作家から発せられる表現にはもちろん多くの振幅があり、一つの色に染まりきることはない。人間として喜びも悲しみも怒りも優しさも、あるいは強さも弱さも、躍動も停滞も入り交じりながら、常に画面にはその当時の作家の心情と、それを投影するに至ったきっかけとしての出来事と、さらにそれを生む経緯としての社会的な出来事や状況が潜んでいる。プライベートとパブリックは決して切り離して存在できるはずはないと私は考えるが、寺島絵画はまさにその通り、究極の自己投影であり、同時にこの時代に生きる私達全てがリアルタイムに共感すべき事象であり、過去から現在へと続く車窓の眺めである。その光景は常にゆっくりと変化し、やがてそれまでとは別の場所へと繋がって行く。

私はよく新幹線に乗るが、同じ経路を行ったり来たりするはずの風景に、同じ印象のものは二つとして存在しない。私にとって18の頃に一人東京から京都へと旅立った時に見た風景と、今のそれとでは大きな違いと言う程のものは無いのだが、見飽きたという気持ちになった事は一度もない。だからと言ってずっと車窓を眺めている訳でもなく、ふとした時に見る光景は常に新しく、同時に見覚えがある。完全な未知も、完全な既知も存在しない、曖昧な記憶と現実の光景の連続。そもそも、本来の景色とは太陽の光、空気の澄み方、雲の流れ、季節の色合いによって千差万別であるから、突き詰めれば今日と明日とでも同じではない。今と一時間後でも然り。では、少なからずそれらに影響を受ける人間の心象はどうであるかと言えば、言うまでもなく移ろいやすい。昨日までの悲しみは今日になって少しだけ癒え、明日になれば笑顔が作れるかも知れない。今日の喜びは束の間のものであることは、赤ん坊で無い限り、知っている。しかし明日の困難もまた、いつか去るであろうことも予感する。私達の心は常に一定ではなく、複数の感情の要素を含ませ、一瞬一瞬でどれかが大きくなったり小さくなったりはするものの、無くなることはなく、またそのメーターを上下させ、表情を変化させ、人を楽しませたり悲しませたりする。「真っ赤」も「真っ青」も実在はしない。在るのは常に混濁した色であり、単色に見えてもそこには必ず感情と絵具の配合がある。

2006年11月にneutronでは初の寺島みどり展を開催して以来、2年と少しの時を経て、寺島みどりは一回り大きくなった姿を見せてくれるであろう。当時「旅人の胸」と題された個展には三つの大作が並び、まさに名前の通り「緑」色の景色には安堵のような落ち着きと少しの好奇心が見て取れた。しかし近作では、当時の穏やかで確固たる地平は霞か雲の彼方に霧散したのか、見当たらない。ひたすらに目の前を覆う叢(くさむら)や雨粒や吹く風を顔に受けているようだ。その先に何が待ち構えているのか、手探りではあるが、確かに何かが在るのは感じられる。それを希望と呼ぶのは、楽天的な冒険家だけに許されるものでもあるまい。私達は皆等しく、旅をしているのだから。

※全文提供: neutron tokyo


会期: 2009年3月25日-2009年4月12日
会場: neutron tokyo

最終更新 2009年 3月 25日
 

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