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高嶺格:とおくてよくみえない
レビュー
執筆: 田中 麻帆   
公開日: 2011年 6月 20日

fig. 1  《野性の法則》 2011年
布、コンピューター、スピーカー、ファン(14分50秒)
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

fig. 2  《緑の部屋》 2011年
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

    恥をしのんで言うと、私はこの高嶺格展を途中まですっかり勘違いした状態で鑑賞していた。チラシによれば、展覧会のサブタイトル「とおくてよくみえない」とは「混雑した展覧会で観客がしばしば発するフレーズの一つ」であり、高嶺は最新作において「本来、自由な表現によって成り立つ美術作品が、美術館や展覧会という様々な制約の中で展示されることで生じる矛盾」※1 に注目したのだという。
    横浜美術館に入ると、早速いつもとは違う風景に遭遇した。この美術館は企画展示室が二階にあり、一階からエスカレーターで上って行く構造になっている。今回は、普段下からも見える二階のピロティ部分が白い布で覆われ、上りきるまで会場の中をうかがい知れない。布がうごめき、中からは象の雄叫びのような、うめき声のような音※2 [fig.1]。更に近づくと鳥のさえずりも聞こえてくる。閉鎖された構造や音から、動物園が連想される。
    エスカレーターを上ってすぐ左の最初の展示室「緑の部屋」(作品はすべて2011年制作)[fig.2]に入り、作品を初めて見て少しほっとした。壁に掛けられた矩形の平面作品は、赤い地の上に白い三つの十字が描かれている。《戦争》というタイトルといい、ライトに照らされ暗い展示室※3 の中で浮かび上がる「作品らしい」存在感といい、サイズやメディアが不確定で主題を何とも見いだしがたい現代美術ではなさそうだ。
    赤い地の色と白い十字のモチーフは、スイスの国旗や十字軍を連想させる。スイスは一般的に平和な永世中立国という印象があるが、実は伝統的に多くの傭兵を出してきた国だと聞いたことがある。平和や正義は、逆説的に戦争がないことには成り立たないという違和感を、高嶺は衝いているのだろうか。横長の国旗のイメージを縦長に置き換えることで、作品にはロスコの絵画のような「崇高」のイメージすらもたらされる。…などと考えながら同じ展示室の23点の作品を見ていくうち、だんだんと不信感を抱き始めた。


言葉が「みえなく」するもの


    展示されている作品には、丁寧に作品分析がなされたキャプションが数点おきにつけられているのだが、何かがおかしい。どこかピントが外れていて、余計な事が書いてあって、その割に書くべきことを書いていない。《夏秋草図》につけられたキャプションは、作品に西洋と東洋の共存を見るが、その解釈はシンメトリーな構図や「パレルゴン」(作品の外に、側に、傍らにあるもの)※4 を喚起する周辺装飾の強調、そしてシルエットで示された草花といった根拠に依っている。しかしこの花のモチーフの根拠について、どうしても疑問が生じてしまう。私にはこの花があの、ギャル/ギャル男の人たちが車のダッシュボードに置いている飾りに似ているように思えて仕方がない。学芸員の方、キャプションで「パレルゴン」などと書いているけれど、巷にあふれるイメージとの類似には気づかないのだろうか…?
    これらの高嶺作品からは美術史学的な影響関係よりむしろ、ファッションテキスタイルやプリクラ、ビデオゲームといった、現代のマスメディア、ヴィジュアルカルチャーを連想せずにはいられない。またあるキャプションは、傍らに掛けられた作品について、「パレルゴン」と「エルゴン」つまり作品の外側と内側に関する問いを喚起するものだとし、カラーフィールド・ペインティングとの違いを説明する。そして肝心のその作品とは、毛玉だらけの縞模様のアクリル布である。
    どう考えても、何かが明らかにおかしい。そう判断を下し、監視員の方に質問した。そこでわかったのは、先程から違和感を増幅させ続けていたキャプションは作品の一部だったということ。作家が学芸員に「なるべく難解に書くように」と依頼した文章だったようだ。そして作品は作家が自らの手で一から作ったのではなく、すべてプリント地や毛布といった既製品の布だったということ。散々メモを取ってきた自分を恥じ入りつつ、この部屋の最後の作品を見た。二つのレリーフがある。レリーフと名付けてはいけないのかもしれない。この部屋の他の作品と明らかに違っていて、説明してくれるキャプションも全くない。
    ここで自分の勘違いについて再考させられた。つまり私が最初の《戦争》という作品に対してしたことは、形に意味を付与しモチーフに象徴性を見出し、ある流派なり作家との類似を指摘することでなにがしかの枠内にくくるという手順である。しかし高嶺がこの部屋の作品とキャプションによって十分に証明してきたように、作品を既存の言葉でまとめ概念化しようとした段階ですでに、私は作品そのものが「みえなく」なっていた。
    「緑の部屋」の最後にある作品のひとつは、粘土で作った額縁である。額縁の中には何もない。その対壁には同じく粘土の、枝葉を広げた樹木がある。額縁には先程から言及されているパレルゴンの概念を、そして樹木の方には脈々と受け継がれ、系統化されてきた美術の歴史を読み取ればいいのだろうか。しかし高嶺の罠にまんまとはまった私はすっかり自信をなくしていた。

fig. 3  《A Big Blow-job》 2004(2011年再制作)
モルタル、土粘土、ファウンド・オブジェクト、
プロジェクター、コンピューター、スピーカー(6分)
音楽:山中透「Operating Room #6_Sun Room」
テキスト:吉岡洋「新・共通感覚論」より(抜粋)
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

    次の作品《A Big Blow-job》(2004年(2011年再制作))[fig.3]の部屋は暗く、スロープを上がって少し高いところから展示を見下ろす。下には粘土で作った文字が並べられているようだ。上にライトが当たった時だけ見えるので、部屋の全貌がわからず、うっすらと浮かぶシルエットから推し量るしかない。ライトは音楽に合わせ、プラレールのようにくねくねと部屋に行きわたる粘土の文字を一字一字なぞっていく。遊園地やビデオゲームのBGMを思わせる、陽気で電子的な曲が短い周期でループしている。
    問題なのは、こうやって示される文字の継起がある文章を語っているものの、読む者に対して全く不親切な方法だという点だ。文字の向きは時々上下逆になり、ライトは二手に分かれて別々の文章を作りもする。また、ライトは曲のフレーズに合わせて文字をなぞるため、文章の区切りとは異なるタイミングで一時停止する。つまり普段本を読むとき自然と行っている文章のフレージングが、ここでは不可能なのだ。辛抱づよく粘土の文字を追っていくと、それらが語っているのはどうやら、自明の「コモン・センス(共通感覚)」など実は存在しない、というメッセージだとわかる。※5
    この部屋でもやはり、美術作品を見たというより文字を読まされて「よくみえなく」なってしまった。一見ジオラマやアトラクションが想起される見世物のような雰囲気は、真逆の結果を生んでいた。私が作品を言語化して噛み砕く前に、作品が「何かを言葉によって語る」という仕組みに疑問を投げかけてくる。はたしてどこまでが作家の罠で、どこからが作家の真意であり本当の作品なのか。


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脚注

※1 「高嶺格展:とおくてよくみえない」横浜美術館フライヤーより引用。

※2 全体で《野性の法則》(2011年、布、コンピューター、スピーカー、ファン)という作品。

※3 実際には部屋の壁は緑色だが、暗い照明のためにほぼ黒色に見える。この緑色の展示室の壁は、本展のひとつ前の期間に開催されていたドガ展のものをそのまま取り入れている。

※4 「パレルゴン」という語の詳しい意味内容については、以下をご参照いただきたい。
http://www.artgene.net/dictionary/cat60/post_177.html

※5 《A Big Blow-job》には吉岡洋『新・共通感覚論』のテキストが使用されている。 「「コモン・センス」、つまり「共通感覚」の存在とは、とうてい自明な事実などではないのである」。「わたしたちはそれぞれ、まったく固有の仕方で世界を知覚している。それらは、互いに比較することも確認することもできない。にもかかわらず、特定の波長域の光を〈赤〉と呼び合うようなコミュニケーションは可能であり、共通の世界が、あたかも存在しているかのようにみえる」。「共通感覚は、特定の感覚器官の存在や、「正常な」精神的発達によって可能になる自然な条件などではない。「五感」から出発しても、「意識」から出発しても、こうした共通感覚にたどり着くことはできない」。http://www.iamas.ac.jp/~yoshioka/SiCS/e-text/jp_online_020214_shinkyotsu.htmlより一部抜粋した。 展覧会カタログ『高嶺格:とおくてよくみえない』横浜美術館+広島市現代美術館監修、フィルムアート社、2011年、p.125参照。


参照展覧会

「高嶺格:とおくてよくみえない」
会場:横浜美術館
期間:2011年1月21日~2011年3月20日(後、広島市現代美術館へ巡回)

最終更新 2011年 7月 11日
 

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