グレゴール・シュナイダー:死の部屋 |
レビュー |
執筆: 結城 なつみ |
公開日: 2011年 4月 04日 |
私たちは日常において、遠い地で起こったテロや紛争、事故などによる人々の「死」をテレビや新聞で頻繁に目にしている。そんな中、「死」に対して私たちはどのようなイメージを抱いているだろうか。いつか死ぬ、ということは生命にとって不可避の結末である。命が尽きるその直前まで、病苦や痛みに苛まれるのではないか。そんな恐怖を抱いているのは、私だけではないだろう。この世の誰もが経験したことがない以上、死はその不可解さを失うことはない。そんな「死」に対して先人たちは科学、医学、哲学、宗教、果てはスピリチュアリズムなど、さまざまな分野においてアプローチしてきた。芸術の世界も、その例外ではない。 ドイツの作家グレゴール・シュナイダーの《死の部屋(Toter Raum, Tokio 2010)》が、ワコウ・ワークス・オブ・アート(東京・初台)で開催された。これまでに私が目にした近現代芸術作品の中にも、「死」を直截に扱ったものはある。たとえば、ジョエル=ピーター・ウィトキンの死体を撮影した作品もそのひとつだ。彼は被写体を古典の宗教絵画になぞらえているかのようであり、「死」そのものというよりは聖性や永遠性を観る者に感じさせるだろう。また、2005年スイスで行われた中国現代美術展※1 で物議を醸した、シャオ・ユの胎児とカモメを接合させた作品は、種族すら違う別々の死体を組み合わせることで新しい生命を誕生させ、「死」という概念から逃れようとしているように思える。日本に目を向ければ、「死に抗する」荒川修作のような作家も現れた。死をテーマとした作例自体は、目新しいものではないかもしれない。しかしながら、現代美術においては「死」を克服することを志向した作品がよく眼に留まる。また、そのような超越的な作品は良くも悪くも、人々の注意を引くのは確かだ。「神」が不在となった近代以降、人が死を超越する方向へと傾倒していったのは想像に難くない。一方で、シュナイダーの制作する《死の部屋》は、作家の言葉を借りれば「死に逝く者のための部屋」である。死体という結果でも死の経過でもなく、それが起こる空間に着目しているようだ。シュナイダー自身の言葉を以下に引用する。 その芸術的空間が必要な尊厳を生み出し、死ぬことそして死を、尊厳に満ちた形で、公の場で眼に見えるものとする。それが僕の願いだ。僕としては、実際の出来事を撮影することには興味がない。※2 「尊厳に満ちた死」のための装置として、シュナイダーはこの作品を制作したと考えられる。そこに、「死」を超越する目的はない。むしろ、受け入れ、迎え入れようとする意識すら感じられる。 脚注 ※1 「麻将―シック・コレクションによる中国現代アート―」(ベルン美術館) “Mahjong : Contemporary Chinese Art from the Sigg Collection” 13 June 2005 - 16 October 2005, Kunst Museum Bern ※2 『グレゴール・シュナイダー《死は芸術作品か?》』ワコウ・ワークス・オブ・アート(2010)p.29 ※3 『美術手帖』2005年8月号所収 ※4 《Haus ur》とは、ケルン郊外のライトにあった両親が所有する賃貸用建築を、シュナイダーが16歳のときから壁の内側に別の壁や窓をとりつけるなど、改築を繰り返したもの。大森氏によれば、内部の物理的変化は身体の新陳代謝と同質の現象であると考えられ、身体と建築空間が同一化したものだという。また、前掲『グレゴール・シュナイダー《死は芸術作品か?》』のインタビュー(p.18)でも、「部屋は僕にとって第二の皮膚だ」という本人の談がある。 ※5 ギャラリーの方のお話では、本当はもう一段高さのある空間があるという。今回は残念ながら、運動神経のない著者は上らずに出てきてしまった。 参照展覧会 グレゴール・シュナイダー『Toter Raum,Tokio 2010(死の部屋)』 |
最終更新 2011年 4月 07日 |