人を探す、場所を探す、言葉を探す、食材を探す、部屋を探す、学校や仕事を探す。そう、私たちはいつも何かを探している。具体的なことから抽象的なことまで、大小関わらず私たちの生とは何かを探し続ける日々なのかもしれない。
森村誠は「トーマス」という人物を探している。 ことの始まりは作家の元に誤って届いたトーマス宛の 1通のメールだった。このメールをきっかけとして、森村はトーマスを探し始める。人々に「トーマスを知っていますか?」と訊ね、探偵に「トーマスを探してください」と依頼し、Googleでトーマスを画像検索する。それらの行為は名前しか手がかりがない実体なき「トーマス」を実在させようとする捜索/創作行為だと言えるだろう。 そして、トーマスの捜索はアート雑誌、展覧会マップ、市販の地図にも及ぶ。地図を見てみよう[fig. 1]。日常よく目にする都市の地図や地下鉄路線図である。だが、そこに印字されたアルファベットは白い修正液で塗り潰されている。ただしT,H,O,M,A,Sの文字以外は。場所や地名を開示、提示するはずの地図は、文字情報のほとんどが修正液で消されることで地図としての機能が消失されているのだ。だが、断片的に目に飛び込んでくるT,H,O,M,A,Sの文字が名前を形成することで、架空のトーマスが地図上に存在することに私たちは気づくだろう。 そう、修正液は「修正」ではなく、「白」をペインティングしている。つまり、トーマスが地図上に存在するためには、T,H,O,M,A,S以外の文字が消される必要があるのだ。そこで森村は修正液を使って、地図及び世界を新たに作り直すのである。トーマスを存在させるために。修正液ひとつで世界の見方を変えてしまう森村の地図は、これまでの地図の見方を「修正」している。
「「地図とは世界に関するテクストである」と言うべきだろう。「テクスト」とは、描く(書く)営みと読む営みとが出会い、それによって意味が生産される空間である。」*1 と若林幹夫は述べている。 そう、森村が作り出した「地図」とはトーマスについてのテクストなのだ。地図にT,H,O,M,A,Sの文字だけが残されることで、トーマスの存在=意味が生産される世界。しかし、同時にこうも言えないだろうか。修正液で消されているのは、私たちの存在だと。私やあなたを構成する文字が消されることで、トーマスは存在できる。しかし、それは私たちの消失を意味しない。なぜなら、私やあなたの文字の一部はトーマスの一部分でもあるからだ。textの語源は中世ラテン語のtextusといい、織物を意味するという。文字や地図が世界を織り成すテクストであるとするなら、「トーマス」もまた多様な意味が創出されるテクストだと言えるだろう。それは、Googleでトーマスを画像検索し、出てきた「トーマス」の画像をもとに修正液で点描したポートレイト作品が明らかにしている。この作品で私たちが見るたくさんの「トーマス」とはいったい誰なのか。それは、私たち自身ではないか。 森村が本展で作り出した「トーマス」とは他者=世界を新たに再生産させるために召喚された人物なのである。ならば、都市や地図、雑誌やインターネットで私たちは「トーマス」を探そう。その探す行為が新たな意味や繋がりを生成させると信じて。 まだトーマスは見つかっていない。
脚注
- ※1
- 若林幹夫『増補 地図の想像力』河出書房新社/河出文庫、2009年、p.63
|