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名和晃平:Transcode
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 11月 16日

撮影:表恒匡|Courtesy Gallery Nomart

    暗闇のギャラリー空間に発光する「細胞」が見える。それは大小異なる透明な球が液晶モニターを細胞状に覆いつくした「彫刻」であった。そう、発光の光源はセル内に内包されたモニターから漏れる映像の光だったのだ。映像の画素(ピクセル)は、モニターを覆う透明なセルによって、さらに分解・破壊され、映像の彫刻化とも言うべきイリュージョンを私たちは目にすることになるのだ。

    しかし、このような視覚の屈折変化はかつて山口勝弘が1950年代に制作した『ヴィトリーヌ』シリーズを想起させはしないだろうか。『ヴィトリーヌ』は箱形の中にモールガラスが組まれることで、見る角度が異なると内部の色彩が屈折して見える作品である。名和の作品もオプティカルな原理を活用した視覚遊戯的ヴァリエーションのひとつだと言えなくもない。

   だが、山口の作品はあくまでも絵画及び平面領域の概念に留まるものであった。つまり、フレーム内に構成されるイリュージョンを鑑賞者が認識するという点では、絵画領域の仕事だと言えるからだ。それに対し、名和の作品は彫刻の境界域を問う作品として見ることができるだろう。なぜなら、モニターに増殖するように纏いつくセルから垣間見える映像は、明確なイリュージョンを鑑賞者に伝達することはなく、発光するセルとして現前しているからである。まるでそれは、液晶の画素(PixCell)が物質として増殖し、ピクセルそのものが射光しているかのようである。映像が物質や身体を介して分解・破壊されること。その破砕されたPixCellは「彫刻」の境界域を揺らがせる「光」なのかもしれない。

    このような本展の作品は、名和作品の代名詞でもあったセルによって物質が覆われた作品に較べると物質性が希薄な印象を受けるかもしれない。これまでの作品は例えセルで覆い尽くされていようと内部に内包された物質の存在が私たちを魅了するオブジェとして存在していたからだ。しかし、本展の作品はセルで覆われた内部のイメージを掴むことはできず、フェティッシュな物質性は消去されている。

    ここでそれを「気体」と呼んでみよう。これまでの作品が固体や液体であったのに対し、本展の作品は「気体」なのだと。それゆえに身体に纏いつきながらも実体を伴わない。それはギャラリー奥のスペースに身を進めば私たちの身体がPixCellへと取り込まれてしまう空間に結実しているだろう。

    だが、この感触こそ、私たちが日々感じる現実ではないだろうか。実体なき映像に囲まれた世界に生きること。それは今日の現実でもある。本展の作品は、そんな世界の縮図として私たちの前にある。この気体が次にどのような気相へと動くのか。私たちにできるのは生成する光の運動を見つめ続けるほかはない。

最終更新 2010年 6月 13日
 

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