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放課後のはらっぱ:櫃田伸也とその教え子たち
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 11月 04日

愛知県美術館と名古屋市立美術館の二館で同時開催された「放課後のはらっぱ—櫃田伸也とその教え子たち—」。開催を来年に控えた「あいちトリエンナーレ2010」のプレイベントとして企画された本展は、愛知県立芸術大学で1975年から2001年まで教鞭をとった画家・櫃田伸也と、その教え子19名による作品を展示するものだ。櫃田は東京生まれであり出身大学も愛知県立芸術大学ではなく東京藝術大学なのだが、あいちトリエンナーレの開催県に位置する一つの教育機関を軸に、教師と教え子という関係性から企画された展覧会は美術館クラスの現代美術展に関して言えば斬新であり、見応えのあるものに仕上がっていた。ただ二館での同時開催といっても、名古屋市立美術館での展示は出品作品数13点、常設展示室一室を使用したものであったため、本稿では愛知県立美術館での展示をメインにその内容の特質を素描したい。

「放課後のはらっぱ—櫃田伸也とその教え子たち—」展示風景写真 画像提供:愛知県美術館

「放課後のはらっぱ—櫃田伸也とその教え子たち—」展示風景写真|画像提供:愛知県美術館

まず会場は、櫃田の初期から近年の作品を展示することから始まっている。そして櫃田のアトリエを再現した展示室を過ぎると、教え子の作品が並ぶ展示室へと続く。全19名を書き記しておこう。奈良美智、小林孝亘、櫃田珠実、杉戸洋、村瀬恭子、渡辺豪、森北伸、額田宣彦、安藤正子、木村みちか、加藤英人、城戸保、長谷川繁、小林耕平、設楽知昭、登山博文、古草敦史、佐藤克久、加藤美佳。その部屋には彼らの大学時代からの作品が陳列され、かつ櫃田の作品も同時に掛けられている。次いで教え子たちの近作だけを展示する部屋へと続くのだが、私はこの両者の作品が同じ空間に展示されている、というところに特に注目したい。 先に私は教師と教え子という関係性から現代美術の展覧会が企画されることの斬新さについて触れたが、その前提には現代の作家が、まず作家毎に語られそれらが集積しないかぎり、あるいはあるテーマ(それは「戦争」だったり「オタク」だったりする)に沿って語られないかぎりは、歴史として記述され難いという私の認識がある。つまり、美術史の方法論ではまったく珍しいことではない師弟関係という観点からその作家や作品について記述されることが、現代については稀なのである。著名な作家であろうとも、たとえばAの師がBであり、その関係性から作品の変遷を読み解こうとする展覧会は私の記憶にない。それはおそらく第一に、現代の作家は教師と教え子の関係といっても、たとえば近世以前の狩野派や土佐派といった流派と比較して、その作風が継承されるという関係にほとんどないことが挙げられるだろう。一概に言うこともできないが伝統工芸の世界ならともかく、とかく「オリジナルであること」を求められる現代美術の世界では特に、師と同じであることはむしろ忌避されることであるに違いない。そもそも専門教育機関以外に流派という意味での先の狩野派や土佐派のような〈スクール〉が絶えて久しく、「他人と違うこと」が作家の固有性を担保するかに見える現代美術の世界では本展のような試み自体考え及ぶことではなかったように思われる。もちろん大学内で開催されるグループ展に教師と学生の作品が同時に展示されたり、あるいは教授の退官記念で教え子との合同展が企画されることなども往々にある。けれどもそれらの展覧会と「放課後のはらっぱ」が異なるのは、美術館で行なわれた本展の規模の大きさと、教師と教え子の関係性からある一つの歴史を描写しようとするアカデミックな態度にあると私は考える。

とは言ってもやはり、同じ会場に展示されていても、教え子のある作品に櫃田のこの作品の影響がある、といった読み解きは不可能である。愛知県立美術館の中村史子学芸員はカタログ中の小論で、アートシーンのメインストリームから隔絶した愛知県中でも田舎である長久手に位置する同大の特異な立地、そして流行に流されない櫃田の教育のあり方など両者の関係性を考える上で非常に重要な指摘をしているが、※1 そこでも特定の作品に即した説明がなされているわけではない。展覧会で見ることができるのは、大学時代からの作品が展示されることでわかるある作家の成長の過程や、彼らによる櫃田への思い出等といった必ずしも具体的な作品との言及を可能にする学術的材料ではないのである。だが会場には、その関係性の豊かさがあらわれていることを指摘しないわけにはいかない。櫃田と教え子の学生時代の作品が並んで展示されている風景からは、確かに既にスタイルを確立している前者とそうではない後者を見て取ることができるかもしれない。しかし上下関係は感じられず、どちらも同じ空間に展示されていることで、そこにある作品をただ享受しようという態度が私たち鑑賞者にあらわれるように見える。それは〈描くこと〉ないし〈作ること〉、そしてそのことによってできあがったものに対する絶対的な肯定へと繋がるものだ。作品は必ずしもポジティブなエネルギーに溢れているものばかりではない。けれども彼らは作り続け今に至る。だから希望がある。


脚注

※1
中村史子「はらっぱ、その豊かな可能性」、あいちトリエンナーレ実行委員会、愛知県美術館、名古屋市立美術館、中日新聞社『放課後のはらっぱ—櫃田伸也とその教え子たち—』p152-154、2009年
最終更新 2015年 11月 02日
 

編集部ノート    執筆:小金沢智


詳細は後日のレビューに記したいが、近年稀にみるほどよく作り込まれたこの展覧会についてまず一言だけ紹介しておきたい。 展覧会は愛知県立芸術大学で1975年から2001年まで教鞭をとった櫃田伸也と、その教え子19名による作品を展示するものだ。言うまでもなく櫃田と教え子の関係は、徒弟制からなる一流派のそれではない。しかし美術史的な見地からすればまさしく一つの「スクール」を軸にある流れを詳らかにしようとする態度にほかならず、私はそのような歴史的な視点が物故作家ではなく現存作家に照射され、かつ成功をおさめていることに敬意をあらわさずにはいられない。 こう書くと非常に硬派な展覧会のように思われるかもしれないが、ポスターなどの印刷物に端的にあらわれているように会場は何より作品を楽しむことができるよう構成されている。櫃田の作品と奈良美智、杉戸洋、加藤美佳ら教え子の作品は時に隣り合うよう展示されており、それぞれの作品がゆるやかに繋がり共鳴する様は幸福感に満ちている。 一言のつもりが長くなってしまった。きわめて重要な展覧会であることが伝わるだろうか?


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