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第1回所沢ビエンナーレ美術展「引込線」
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 10月 15日

    昨年のプレ展に始まり今回第一回を迎えた「所沢ビエンナーレ美術展 引込線」の「企画概要」は展覧会が目指すものを簡潔に伝えているが、その中に「美術家のみならず、執筆者も同じ地平の表現者として参加願うこと」※1 という一節があり、それが何を意味するのかとりわけ気になっていた。批評家が展覧会のキュレーターを務めることは珍しくないが、その後に続く文章を読むとそういう意味ではないらしい。「美術家はもとより批評家、美術館員、学者、思想家、他の美術を構成するすべての成員に、同じ地平で参加していただき「表現の現場」としての展覧会とともに、会期終了後には作品の記録と批評誌の機能を合わせ持つカタログを出版いたします」とあり、つまり批評家や美術館学芸員などの執筆者がカタログに文章を寄稿することがここでの「同じ地平での表現者として参加」することを意味しているようだ。それはキュレーターとしてとは別の形での「受け手」の展覧会参加である。ただ、「作家主導」を謳い文句にしながら「美術家」ではない、その「受け手」も積極的に展覧会の構成要素としていることが同展の大きな特徴だが、ではそれがどれだけ実際に機能しているかというと機能していないと言わざるを得ない。
    その最も大きな理由として、美術家と執筆者が「同じ地平で参加」しているとは考え難いことが挙げられる。現時点で今年のカタログは未発売のため昨年のカタログを参考にするが、15名の執筆者の文章はカタログ全体として見た場合に一貫性が無く、なぜその文章をこのカタログに載せなければならなかったのか詳らかではないのだ。展覧会出品作家ごとのページの次項に一つの文章が挟み込まれるという構成を書籍は採用しているものの、作家も執筆者も五十音順での掲載であることからも明らかなように、たとえば伊藤誠とその後に続く青木正弘の「日本現代美術覚書’91」は直接的な関係はない。
    内容も千葉茂夫の「「問い」としての「アフリカ」」や原田光の「美術館員のひとりごと」のような見開き二ページのエッセイ風の文章もあれば、沢山遼の「捻転する彫刻—「芸術と客体性」から、ブルース・ナウマンを読む」や峯村敏明の「三木富雄論 序章—「表現」の切断—」のような短めだが研究論文として位置づけられるものもある。展覧会自体にテーマが設けられていないように、これらの文章にもテーマが設けられていない。果たしてこの書籍は展覧会出品作品を収録した「カタログ」なのか、あるいは個々人の研究発表の場である「批評誌」なのか。主催者はどのどちらでもあると言うのだろうが、そのどこが「同じ地平」での参加なのか腑に落ちないのである。「美術」についての思考であれば美術家の「作品」であれ執筆者の「文章」であれすべからく「表現」であり「同じ地平」に立っているのだというような安穏とした態度がここには垣間見え、「可能な限りゆるやか」な人選は結局「美術」の内側に閉塞しているように思えてならない。だから、受け手に届かない。同じ書籍に収録されるのであれば、作品をめぐり執筆者がその美術家に挑みかかるようなものが私は読みたいのだが、それらはまったく平行線のまま交わることがない。

fig. 1 著者撮影

    所沢市の作家が中心となり、美術の〈内〉に留まらない〈外〉に開かれた展覧会を志向しているように見えながら、「引込線」がまったく〈外〉に開かれていない展覧会であることはまさしくその〈外〉の状況からわかる。会場となっている西武鉄道旧所沢車両鉄道は西武池袋線・西武新宿線の所沢駅から徒歩二分ほどの立地にあるが、駅から会場に向かう中でポスター一つ見かけないのだ。距離としては遠くなく、駅前には近隣の地図もあるから、会場が西武鉄道旧所沢車両鉄道であることさえ知っていれば地図を持たずともそこで場所を確認してたどり着くことは可能である。交番もあるから、わからなかったら警察官に聞けばいい。しかし、「美術に関心をもつ全ての人々の覚醒した意志を引き込む、吸引力のある磁場をつくり出したい」と立派な文言が概要に書かれながら、最寄り駅にポスター一つ貼られていないその状況は、すなわち「〈わかる〉人だけ来ればいい」ということにほかならない。もしかしたら私が見逃したのかもしれないが、駅のホームから会場まで歩く中で「引込線」を告知するものは会場外の駐車場に貼られたポスターをのぞき皆無であり[fig. 1]、広報の欠如は〈外〉に向かって開いていこうとする意志がないことを端的に示している。もちろん予算の問題もあるだろう。だが、たとえば近隣の店舗にポスターを貼ってもらうよう頼むくらいのことは、金銭的な問題というよりはそういう発想があるか否か、そして、それに向かって努力できるか否かの違いでありそれ以外ではない。
    当初期待していた「美術家」と「執筆者」の有機的な結合を見ることはかなわず、総合的に見ても結局展覧会は「美術」の内側で「自己表現」を叫んでいるだけのようだった。「一部の美術作品の商品化、コマーシャル化、娯楽化」を嘆き、「精神活動として深層における感性の快楽の回復」を目指す前に、自分たちの行為もまた「自己表現」の賜物であることを見つめ直すべきではないか。所々から伺える「〈わかる〉人だけわかればいい」という選民的な態度が、戦後〈芸術〉という名の下に、どれだけ〈美術〉を世間から乖離させたか彼らは未だにわかっていないのかもしれない。「コマーシャル」を目指し〈外〉に出なくとも、しかし私たちは引きこもるわけにはいかないのである。

脚注
※1
その他文中の引用はすべて公式ウェブサイト「所沢ビエンナーレ引込線」中、「企画概要」による。
http://tokorozawa-biennial.com/statement.html
最終更新 2010年 6月 13日
 

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