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田中道子:中空
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 7月 17日

fig. 1 ≪中空≫インクジェットプリント|728×1030mm|画像提供:田中道子|Copyright © Michiko TANAKA

fig. 2 「田中道子:中空」(ギャラリー山口・B1)展示風景|画像提供:田中道子

fig. 3 「田中道子:中空」(ギャラリー山口・B1)展示風景、画像提供:田中道子

「散文」は、未知のものを、決して、そのままにしておこうとはしない。
そこに「何か」がある。ポツンと置いてある。誰にも知られず存在している。なぜ、誰にも知られていないのか(どうやら、みんな、ちらりと見るだけは見ているのに)。それに、名前がないからだ。ことばがくっついていないからだ。ことばがくっついていないということは、この世界に所属していない、ということだ。そういうものを「散文」は、放っておけない。 なぜ、放っておけないのか。「散文」は、そんなことは考えない。まあ、それは、「散文」の本能のようなものだと思えばいい。とにかく、どのようにも名づけられないものがあるということは、きわめて不吉なことだ(と「散文」は考えている)。
(高橋源一郎『ニッポンの小説』文藝春秋、2007年)

    学生時代、高橋源一郎に凝った時期があった。小説家としての高橋源一郎、ではない。かといって、評論家としての高橋源一郎、でもない。言うならば高橋源一郎という思考のあり方であり、私が高橋から学んだものは、たとえば小説家や評論家、あるいは大学教授などの世間一般の肩書きがいかにその個人のイメージを限定させてしまうか、という点、すなわち言葉の持つ暴力としての一面にほかならない。冒頭の引用文は、私が文章を書く上で常に傍らにある文章である。

    書くということは書かれたものと書かれなかったものの差異を浮き彫りにし、順位付けする行為である。そして、書かれたものと書かれなかったものは、必ずしも書かれるべきものと書かれるべきではないものを意味しない。書かれるべきものが書かれず、書かれるべきではないことが書かれるという倒錯は日々起こる。その価値判断こそきわめて恣意的な振舞いであり、ならば、と意識的にその暴力性から距離を置き、書かない、という選択肢もあるのだが、言葉で伝えることの利便性に身を浸し続けてきた私は、いや、言葉しかない私は、今もこうしてキーボードを叩いている。

    だから私はいつも自分の文章を、そのままの意味で読んで欲しいと願いながら(それは作者としては当然の思いである)、それよりも批評的な眼差しをもって読んで欲しいと強く願っている。なぜならそれこそが言葉から暴力性を解き放つものであり、その視座をもたないかぎりすべては書き手のプロパガンダと化してしまうからだ。こう書いていることも即座に信用してはならない、ということである。言葉はいつも、「ことばがくっついていないもの」のあとから我が物顔でやって来る。

    では、私たちはいかにして、「ことばがくっついていないもの」をその未知性を伴ったまま言葉に置き換えることができるのか?ビジュアルを言語化しなければならない美術史/美術批評に関わる人間は、とりわけその問いを内に抱えざるをえない。 田中道子の個展「中空」(ギャラリー山口 B1、2009年6月15日〜6月20日)について書こうとしながら言葉が内包する問題についてまず書いているのは、田中の写真がほかでもない「ことばがくっついていないもの」であり、それゆえにどのような言葉を紡げばいいのか私が途方に暮れているからである。

    展示されていた7点の写真は、いずれもビルの一部分を写したものである。田中は隣接するビルの非常階段などを利用し、近隣のビルの屋上や側面を、正面ないし斜め上から、デジタルカメラで撮影する。そのためピントがくまなく当たり、画面は平板な印象を持つ。それらは、高層階から眼下を見下ろして撮ったミニチュア的な都市風景ではない。50mmのレンズで撮られた風景は、対象と近くもなければ遠くもない絶妙な距離感を保っている。

    撮影する時間は夕方、そして天候は曇りと決められている。比較的長めにとられる露光時間と、曇りの天候の光のまわりが、その平板さに光と影のコントラストをもたらす。個展タイトルである「中空」とは、田中のステイトメントに「日常生活の少し上
 そこではすべて等しく日の光を浴びて共存している
 人間の領域と、宙の領域のあいだに
 中空の単位を見た」とあるが、それは空間としての中間だけではなく、時間や天候としてのそれも内包している。朝でも昼でも夜でもなく昼と夜の間にある夕方という時間、晴れでも雨でもない曇りという天候。これらのあらゆる中間的な要素が、結果として私の気分を落ち着かない、不安定なものにする。

    それらのビルには公的な名前がついているはずであり、何より私はそれをビルと認識できている。しかしその不安定さが結局私から言葉を剥ぎ取り、私はそれでも見つめてしまう写真の引力を感じながら、〈わからなさ〉を告白することしか現状はできない。写真とは、未知のもの、「ことばのくっついていないもの」を名づけることなくそのまま提示することのできるメディアであり、田中の写真は、それを気づかせる、ただ「写真」としか名づけようのないものなのである。ドキュメンタリー的でもなければ芸術的でもなく、日常的でもなければ物語的でもない。そこには、だからこその存在としての強さがある。〈わからなさ〉もまた言葉であり、その理路が言葉で綴られるものである以上、これは視覚に対する言葉の敗北を意味しない。名づけられていないものだけが持ちえる豊穣さ、このニュアンスが、はたして伝わるかどうか。田中道子は1985年生まれ、現在武蔵野美術大学大学院造形研究科デザイン専攻写真コースの修士課程二年次に在籍中であり、本展は初個展である。


参照展覧会

展覧会名: 田中道子:中空
会期: 2009年6月15日~2009年6月20日
会場: ギャラリー山口

最終更新 2010年 7月 05日
 

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