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山口英紀 展
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 7月 15日

fig. 1 ≪空虚で均質な時間≫2009年|紙本彩色
41.0×27.3cm|画像提供:新生堂
Copyright © Hidenori YAMAGUCHI

fig. 2 ≪街物語≫2009年|紙本水墨
27.3×45.5cm|画像提供:新生堂
Copyright © Hidenori YAMAGUCHI

fig. 3 ≪約束≫2009年年|紙本彩色
33.3×53.0cm|画像提供:新生堂
Copyright © Hidenori YAMAGUCHI

    ミニチュア的水墨画—私は山口英紀の作品を、ひとまずはそう呼びたいと思う。たとえば都市風景を細密に描いた≪空虚で均質な時間≫(紙本彩色、41.0×27.3cm、2009年)[fig. 1]や《街物語≫(紙本水墨、27.3×45.5cm、2009年)[fig. 2]は、画面の上下、ないし左右がぼかされており、中心となるごく狭い範囲をとりわけ精緻に描くことによってその光景があたかもミニチュアのように見える作品である。山口によれば前者は「街に溢れる看板その他のモノ、交通量などなど自分で勝手に整理して描いている」というが、※1それは実見しないかぎり水墨画であると断じることすら困難であり、その描写は写真家・本城直季の一連の写真を思い出さずにはいられない。2006年に第32回木村伊兵衛写真賞を受賞した本城の写真集『small planet』(リトルモア)に収録されている、カメラのピントを極度に狭めて撮ることで実景をまるでミニチュアのように見せる写真と、山口の水墨画は、写真と水墨画という分類を除けば明らかなシンクロニシティを備えている。

    山口の作品がすべて本城の写真に近似しているわけでは決してないのだが、あえてその共時性にこだわり、問いたいと思う。では、山口の水墨画と本城の写真を分かつものは何か?本城は都市をミニチュアのごとく撮ることによってその虚構性を浮き彫りにするが、山口にそのような批評性は認められないという点が分岐点であると私は考えたい。山口は関心のある対象を、自身が最も得意とする水墨の技法を用いて再現しているに過ぎない。今回の出品作であれば都市、工場、観覧車、動植物といった日常風景にあるものである。クローバーを描いた≪約束≫(紙本彩色、33.3×53.0cm、2009年)[fig. 3]はとりわけ作家の日常への眼差しが感じられる作品であり、密生するその中には幸運の、四葉のクローバーも紛れているという。たとえぼかしが使われていなくてもそれらの多くは対象と距離を隔てながらもまるで手に掴めそうな親密感があり、その点でもミニチュア的と言えるのではないだろうか。

    私はそうした日常への眼差しが、水墨画というジャンルにおいてはきわめて希薄であり、それこそが山口の位置を特異なものにしているということを指摘しないわけにはいかない。山水図が水墨画史の中で大きな位置を占めていることが示しているように、濃淡や描法によって豊かな色調をもたらす墨は、広大で深遠な世界の表出を得意としてきた。それは宗教上の教義を、未だ見ぬ土地への過剰とも言える憧憬を、あるいは凶暴なまでの自然をあらわしてきたのではなかったか。だから山口の作品を前にすると、水墨画というジャンルそのものが換骨奪胎しているように思えてならないのである。そこに描かれているものは、身近にある、なんでもない風景なのだ。中には銀箔が散らされ、いささか劇的な光景へと変化しているものも少なからずあることは事実である。だがそこで作家の眼と手を通して描かれているものが、私やあなたが何気なく目にしている/目にしたことがあるものということに変わりはない。山口はその、そもそもの美しさを突きつける。実見しなければわからない水墨ならではの肌理の細かさや驚嘆すべき丁寧な画面作りが、その世界を一層強固なものにしている。

脚注
※1
山口英紀のウェブサイト「思纂室」、「Notes」、2009年2月16日(月)「交差点」より引用 http://sizuanshi.com/2009note.html

参照展覧会

展覧会名: 山口英紀 展
会期: 2009年6月10日~2009年6月21日
会場: 新生堂

最終更新 2010年 7月 05日
 

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